80年代を生きた人は誰もが知る名曲の数々「大村雅朗」の死に際とは?
この記事では大村雅朗の晩年と死に際について解説していきます。
「大村雅朗」とは?簡単に説明
日本の音楽史上に名を残す傑出した編曲家・アレンジャーだと言っていいでしょう。
編曲家としての出世作となったのは「八神純子」氏の『みずいろの雨』でした。
軽快なポップスから重厚なバラードまで多彩な音楽を残しています。
携わった曲を挙げればキリがなく80年代をリアルに過ごしてきた方ならば知らない曲はないと言っていいほどです。
また「松本隆」氏とコンビを組んで「松田聖子」氏を作り上げた人物としても有名な方でした。
「大村雅朗」の晩年
晩年は「辛島美登里」氏の担当をしていた事で知られます。
1996年1月31日に発売された8枚目のアルバム『恋愛事情?reasons of love?』では10曲中6曲をチューニングしていました。
アルバムは好調なリリース成績を見せており、『サイレントイブ』が大ヒットした90年代初頭期のアルバムを除くと現在に至るまで1番の売り上げとなるほどです。
またアレンジャーよりもトータルなプロデュースをしたいとインタビューで語っている通り「くま井ゆう子」氏のプロデュースも手掛けています。
ついに頭がいかれたかと思われる様な超個性的な音楽を手掛けたいなど今後の音楽活動についての展望も話していました。
「大村雅朗」の死に様
1997年6月29日に逝去。
46歳没。
死因は肺不全と公表されています。
独身を貫いていた事もあって、その死については多くが語られていません。
晩年の痩せ方や追悼本に煙草を吸う姿が多く掲載されている事から肺癌を患っていた可能性が高いと思われます。
「大村雅朗」の死に様の信憑性
2020年1月の西日本新聞において大村氏の特集記事が記載されています。
闘病生活について多くは語られていませんが、戦場とも言えるスタジオで倒れたとの記載があるため、闘病生活を続けつつギリギリ限界まで仕事をしていたと推測ができるでしょう。
また『作編曲家 大村雅朗の軌跡 1951-1997』では生前最後のインタビューとして1996年2月13日付に収録されたものが掲載されています。
表紙の若かりし日の姿からすると、亡くなった事実や先入観を除いても首回りと目の下から頬にかけての痩せ方は気になるところでしょう。
また同著の表紙を含め、巻中の写真の多くに喫煙シーンが使われている事から相当な愛煙家だったとも推測されます。
これらが大村氏が肺癌を患っていたのではないかとネット上で噂される理由だと言っていいでしょう。
まとめ
1997年6月29日に永眠。
46歳没。
死因は肺不全によるものでした。
具体的な病名については公表されていません。
死後25年経過した2022年には多くの追悼特別番組が放送され、追悼本も発売されていますが、彼の音楽界における功績を振り返ったものが主になっており、闘病生活についてはほとんど触れられていません。
ただ地元福岡・西日本新聞の特集記事では大村氏は戦場のスタジオで倒れた記述が見られます。
そのため闘病生活をしつつも、自身の限界まで音楽に向き合っていた可能性が高そうです。