貴族政治を破るもマラリアに敗れた?「平清盛」の晩年とは?
「平清盛」とは?簡単に説明
平清盛は貴族政治を打ち破り、初めて武家として太政大臣になり政権を握った人物です。
最盛期には天皇と上皇、両方に仕えて思うがままに政務を動かしていくのでした。
経済的には日宋貿易を掌握することで莫大な財力を手にすることに成功します。
また日本初の人工港を博多に作ったり、貨幣経済を発達させるなどの功績も残しました。
その一方で晩年興福寺、圓城寺、延暦寺など寺社勢力と敵対。
興福寺はもとより奈良一円を灰塵にしたことで仏敵と見なされて、悪役として語り継がれ、これが後世に定着してしまうことになります。
「平清盛」の晩年
後白河法皇との仲が悪化し、鹿ケ谷の陰謀をはじめ、ことあるたびに清盛を逆撫でする動きを院側は見せるようになってきていました。
清盛は1179年の上洛で治承三年の政変を行うと、次々にクーデター、改革を行います。
上洛から3ヶ月後、安徳天皇を擁立し後白河法皇を幽閉することに成功しますが、これは悪手となり反対勢力を増やしてしまうことになります。
後白河法皇の第3皇子・以仁王の挙兵、興福寺、園城寺、延暦寺の反平氏勢力が呼応します。
以仁王の令旨が発令されると状況はさらに悪化し、各地で反平氏の動きが活発化。
それでも一時源氏に占拠されていた近江を取り返し、寺社勢力で反平氏の代表格である興福寺を焼き討ちで対抗していきます。
反乱と鎮圧を繰り返すなかで平安京を中心に反撃体制を整備します。
しかし1191年の春清盛は高熱を発して倒れてしまうのでした。
「平清盛」の死に様
各地で平氏に対する反旗が翻るなか、清盛は1181年3月15日に謎の熱病に罹患して倒れてしまいます。
平家物語ではあまりの高熱に水風呂に入れようとしたところ、湯が沸いてしまった件があるほどです。
死期が迫り法皇に自らの三男宗盛と協力して政務をするように伝えるも返答がないため「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、倒れてから僅か5日で遥かなる高みに上がり、享年64でした。
「平清盛」の死に様の信憑性、マラリア説とは?
もともと日本でも土着のマラリアは20世紀まで発生しており、流行していた記録が残されています。
「和良波夜美」「衣夜美」「瘧」これらの表記は、古代から中世で日本でマラリアと思われる表現となっており、三日マラリアは京都でも大流行した記録があります。
清盛は発熱して倒れて、5日目に亡くなった記載があるため、熱帯マラリア(悪性)に罹患した可能性が高いと言えるでしょう。
インフルエンザ説もありますが、集団感染の記録等、それらしき記載がないためマラリア説が濃厚となっています。
まとめ
平清盛が倒れたのは暦のうえでは厳寒期にあたりますが、西暦では3月の下旬でした。
平安時代は地球自体が温暖期で鎌倉時代まで現代なみの気温だったことが科学的調査でわかっています。
京都はマラリアの大流行地で清盛以外にも罹患した著名人が多くいます。
政敵であった後白河法皇も実は清盛と同じくマラリアでこの世を去っているのは不思議な巡り合わせというしかありません。