父に反発して乞食を経験した反骨心の持ち主?「吉田健一」の死に際とは?
この記事では吉田健一の晩年と死に際について解説していきます。
「吉田健一」とは?簡単に説明
今に立ち直る、日本は必ず立ち直る等戦後日本の名宰相として知られる「吉田茂」氏を父にもつのはあまりに有名。
ご子息は物理学者の「吉田健介」氏。
政治家・文学者・物理学者と全員が方向性の違う道へ進んで、各界で名を挙げた稀有な家系と言っていいでしょう。
代表作は多々あり、好みによって個人の趣向によって別れるもの読売文学賞を受賞した『瓦礫の中』。
自身の残っているものを全て出したと語る『時間』などが挙げられます。
「吉田健一」の晩年
70年代はかなりのペースで著作本を出版。
1976年には前述した通り『時間』を出版しています。
自身の残っているものを全て出したと感じると語ってはいますが、実際はその後も8月に『変化』を連載開始するなど精力的な活動を続けていました。
さらには77年1月に新潮社で新たな連載『読む領分』を連載開始しています。
ようやく長い休暇を取ったのは同年5月のこと。
70年代を駆け抜けた骨休みとばかりに夫人を同伴。
行き先に選んだ先は、かつて自身が若き日を過ごしたイギリス・ロンドンを核にした欧州行脚でした。
フランス・パリには自身の長女である「暁子」氏がイタリアには74年に結婚した健介氏が在住。
つかの間の骨休みへと旅立つもまさかの事態が待ち構えていたのです。
「吉田健一」の死に様
1977年8月3日、東京都新宿区払方にあった自宅にて逝去。
65歳没。
死因は肺炎によるものでした。
「吉田健一」の死に様の信憑性
ロンドン滞在中に風邪をひき悪化。
肺炎を患ってしまった事が後々尾を引くことになってしまいます。
6月に強行日程でパリを訪れ、健一氏のあまりの調子の悪さを暁子氏は気遣うほどでしたから、既にこの段階で本人にはかなりの身体の負担があったのでしょう。
帰国後の7月14日に聖路加国際病院に入院していますが、毎日ギネスビール1本の飲酒を許可に入院したのは良く知られたエピソードになりました。
1本のビールを慈しみながら食前に3回に分けて飲んだとされますが、医師の指示は食後だったと言います。
ビール以外の食事は取らなかったと作家で旅仲間でもある「河上徹太郎」氏が後日語っていますが、恐らく取れなかったのが真実ではないでしょうか。
入院生活を24日で終えると、その後10日前後で亡くなってしまいました。
これらの経緯を見ると死因は肺炎ですが、それに繋がる内臓系の疾患も考えられます。
愛煙家かつ前述した逸話から肺癌や肝臓癌説が当時から挙げられています。
また余命宣告を受けたため長男、長女に会うための欧州行脚とも考えられなくもないでしょう。
またそう考えると『時間』の全てを出し切ったと話すコメントも後から納得できるものがあります。
しかしこれらは全てが推測にしかすぎません。
まとめ
1977年8月3日朝6時頃、東京都新宿区払方の自宅で永眠。
65歳没。
死因は肺炎と公表されています。
その一方で70年代前半からかなりのペースで執筆を続けていたもの、纏まった休みの最中に病気を発症した事から既に欧州旅行前に何らかの体調不良があった可能性も囁かれていました。