「平将門」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「平将門」の死に際とは?日本の人物

日本三大怨霊の一人「平将門」

討ち死にした怨念から、その首は目を見開き身体を探して彷徨ったとされています。

そこまでの恨みを抱きながら、「平将門」はどのように死んでいったのでしょうか。

この記事では「平将門」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。

「平将門」とは?簡単に説明

「平将門」は、詳しい出生日は分かっていないものの、桓武天皇の血を引く人間でした。

15歳で藤原忠平に仕えますが、父が死去した事で帰郷する事になります。

しかし「平将門」を待ち構えていたのは激しい一族での抗争でした。

父の領土が横領されているのを知った将門は、関係していた親族を殺害してしまいます。

それに激怒した叔父たちが将門を襲撃するのですが、将門はこれを打ち負かします。

そこで叔父は朝廷に将門の罪を訴え将門は朝廷に捕まるのですが、朱雀天皇の恩赦により罪が解かれます。

しかし執念深い叔父は再度将門を襲撃しますが、将門はかつての殿であった藤原忠平に叔父らの悪行を訴え、今度は逆に叔父らの追捕の官符が朝廷から出たのでした。

しかしその頃から叔父は病で床に臥せるようになりそのまま病死。

将門は力をつけていきました。

939年犯罪者を匿っていた将門は、その犯罪者の引き渡しを要求された際にそれを拒否したため、平将門の乱に発展していきます。

1000たらずの兵で3000の敵に圧勝。

敵国であった常陸国府を焼き払った事で、将門は朝廷の敵とみなされました。

その頃から、朝廷に対抗するように将門は「新皇」を自称するようになります。

激怒した朝廷側はすぐさま将門を倒すために、全国に将門を指名手配します。

それに乗ったのは、将門に強い恨みを持っていた叔父・平貞盛でした。

戦は拮抗状態が続くのですが、2月14日ついにその時が来たのです。



「平将門」の死に様

940年2月14日、朝廷側の平貞盛を始めとした連合軍と将門との最終決戦が始まります。

強い春一番が吹き荒れる中、将門軍は風上に陣を構えていたため、風の力を借り優位に戦況を勧めます。

連合軍側は不利な戦況で3000人近くの兵士が逃げ出し、300人程までに兵は減ってしまっていました。

勝利を確信した将門は自軍に引き返しますが、急に風の向きが変わり立場は逆転、今度は連合軍側が反撃を開始しました。

将門は自ら馬で駆け巡り、敵兵を倒し続けますが、たまたま飛んできた敵の弓矢が将門の額に当たり、そのままあっけなく討ち死にしたのでした。



「平将門」の死に様の信憑性

「平貞盛」の死に様は、敵兵の弓矢が額に当たり、死亡したとするのが通説となっています。

しかし、一部の書物によると弓に当たった後に落馬し、そこに駆けつけてきた敵将に首を取られたとされる記録が存在します。

そのため、討ち死の理由については諸説ありますが、風の向きが変わった事によって窮地に立たされた将門は、弓矢がきっかけで討ち死にした事は間違いないようです。

「平将門」の小ネタ等

「平将門」は日本三大怨霊として有名です。

将門の首はさらし首とされるのですが、数か月にも渡って目を見開いて胴体を探すように彷徨っていたとか。

その他にも東京都の大手町にある「平将門の首塚」など、多数の「将門の首」の伝説は伝わっています。

まとめ

日本三大怨霊で有名な「平将門」の死に様は、敵に弓矢で撃たれた事による討ち死にでした。

首を斬られても胴体を探し彷徨い続ける程、強い恨みを持ってこの世を去ったのでしょうか。

「将門の首」にまつわる伝説はいくつかありますので、是非調べてみてください。

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