「本多正信」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「本多正信」の死に際とは?日本の人物

本多正信は徳川家康と秀忠の親子に仕え、徳川幕府の礎を築くために尽力した人物です。

徳川幕府の中枢で権勢をふるった本多正信の晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。

本多正信とは?

本多正信は、徳川家康の側近として知られています。

知略・謀略に長けた名参謀で、家康は正信を重用しました。

家康からの信頼は厚く、徳川政権の樹立やその後の基盤を強固にするために尽力します。

家康が隠居して息子の秀忠が将軍となると、今度は秀忠の側近として幕政を支えるようになりました。

本多正信の晩年

本多正信は、徳川家康が隠居して駿府に映った後も秀忠の元で幕政に関わります。

世の中は乱世が終わり、武人よりも文人としての能力が求められる時代になっていました。

本多正信は、まさに文人として優れた能力を持っていたのです。

江戸の町の整備や行政組織の整備、武家諸法度・公家諸法度の制定などに尽力しました。

300年近く続いた徳川幕府の時代の礎を築いたといっても過言ではありません。

慶長12年には、秀忠付きの老中となっています。

本多正信の最期

本多正信が亡くなったのは、元和2年6月7日のことでした。

享年79歳という年齢は、当時としては非常に長寿です。

徳川家康がその年の4月に亡くなっており、その2か月後のことでした。

家康が死去した後には、家督を長男である本田正純に譲っています。

それにより政務からは完全に退きます。

死因ははっきりしませんが、79歳という年齢を考えると老衰である可能性が高いです。

本多正信にまつわる逸話

徳川家康好物は、「佐渡殿、鷹殿、お六殿」という言葉が遺されています。

鷹殿というのは鷹狩りのことで、家康は鷹狩りを非常に好んだといいます。

本多正信は元々、鷹を育てる鷹匠として家康に仕えていました。

また、お六殿というのは家康の側室で、お六の方と呼ばれていました。

家康が晩年に愛した女性として知られています。

そして佐渡殿というのが本田正信のことで、天正14年に佐渡守に任じられたことから佐渡殿と呼ばれていました。

こういった言葉が遺されていることからも、本多正信が家康から信頼されていたことが分かります。

物欲のない本多正信

徳川家康・秀忠に重用され江戸幕府で揺るぎない地位を築いた本多正信ですが、その禄は2万2千石しかありません。

もっと沢山もらってもいいように思いますが、実は本多正信自らがそれ以上はいらないと断ったといわれています。

嫡子である正純に対しても、戒めとして加増の話があっても辞退するようにと言い置いています。

絶対に3万石以上は超えないようにと言っていました。

しかし、息子の正純はその意志に反して15万5千石の石高を得ます。

そして秀忠の時代に失脚してしまいました。

まとめ

本多正信は徳川家康と秀忠の側近として活躍し、徳川幕府の礎を築くのに尽力します。

正信が亡くなったのは79歳で、家康が亡くなってから2か月後のことでした。

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