「生類憐みの令」を出し、犬を手厚く保護したことから「犬公方」とも呼ばれる第5代将軍「徳川綱吉」ですが、どのような最期を遂げたのでしょうか?
この記事では、「徳川綱吉」の晩年や最期についてわかりやすく解説していきます。
「徳川綱吉(とくがわ つなよし)」とは?簡単に説明
「徳川綱吉」とは、江戸幕府第5代将軍であり、館林徳川家初代、及び上野・館林初代藩主です。
第3代将軍「徳川家光(とくがわ いえみつ)」の四男でもあり、第4代将軍「徳川家綱(とくがわ いえつな)」は兄にあたります。
兄弟の序列をわきまえさせたいという父の意向もあり、「儒学」に打ち込みますが、このことが「徳川綱吉」の政治趣向に大きく影響を及ぼします。
学問所の建設や儒学の討論会を催し、儒学の発展と、著名な儒学者の輩出に大きく貢献しました。
これらは「天和の治」と呼ばれ、善政として評価されています。
「徳川綱吉」の晩年と最期
貞享元年(1684年)に大老「堀田正俊(ほったまさとし)」が刺殺されてしまいます。
その後、「徳川綱吉」は大老職に人を就けず、悪政と評される政治を独断で執り行うようになりました。
有名な「生類憐み(しょうるいあわれみ)の令」もこの時期に発されたと云われています。
これら「徳川綱吉」の治世における後半の政策は幕府の財政悪化や経済混乱を招きました。
そして、宝永6年(1709年)の1月10日、成人麻疹により死去します。
享年64歳でした。
「徳川綱吉」の死に様の信憑性
「徳川綱吉」が亡くなった時期は「天然痘」と「麻疹」が大流行していました。
当時、「麻疹」は感染すると生死にかかわることから「命定め」とも呼ばれていたそうです。
生類憐みの令
「生類憐みの令」は、犬をはじめ猫、鳥類、魚類、貝類、昆虫類などの保護を命じた法令です。
これにより、鷹狩りや釣りも禁じられ、違反者の中には切腹に処された事例もあります。
犬は特に手厚く保護され、中野などに保護施設を造設し、約10万頭が保護されました。
「徳川綱吉」が「生類憐みの令」を発した理由として、嫡男の早世が影響したとする説があります。
「跡継ぎを望むのなら、動物たちを大切にしなさい。
将軍(綱吉)は戌年なので、特に犬を大事にするのが良い」という僧からの助言が発令に繋がったとされています。
また、発令当時、「人々の仁心を育むため」と政策の説明がされており、儒学の教えの下、戦乱後の荒んだ人々の心に仁徳を広めるため、命を尊重させたとも解釈されています。
まとめ
「徳川綱吉」は江戸幕府第5代将軍となった人物です。
後世でも有名な「生類憐みの令」を発し、特に犬を手厚く保護したため「犬公方(いぬくぼう)」とも呼ばれました。
前半は「天和の治」として善政を行いますが、後半は独断で悪政と評される政治を行います。
宝永6年(1709年)の1月10日、成人麻疹により64年の生涯を終えました。