「片倉小十郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「片倉小十郎」の死に際とは?日本の人物

隻眼で有名な伊達政宗が絶大な信頼を寄せた右腕として戦国時代に活躍した武将「片倉小十郎」

小十郎の名は、当主が代々に渡り踏襲していたため名乗るようになりましたが、本名は「片倉景綱」と言います。

その「片倉小十郎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈していきます。

「片倉小十郎」とは?簡単に説明

「片倉小十郎」は、神社の神職をしていた景重の次男として1557年に生まれます。

幼い頃に両親を亡くしてしまったため、親戚の養子となりますが、養父母に子供が生まれた為に再度片倉家に戻されます。

その後、伊達家に姉の喜多が教育係として乳母を拝命した事を受けて伊達家に仕えるようになります。

伊達政宗は基本的に家臣の意見を尊重する事がなかったのですが、「知の景綱」と言われていた小十郎を信頼し重宝していきます。

政宗が行った数々の戦のほとんどに参戦し、中でも小田原遠征を政宗に参戦するよう助言した話は有名です。



「片倉小十郎」の死に様

「片倉小十郎」は、1915年に59歳で病気により死去しています。

現在で言った所の「メタボリック症候群」だったと言われています。

晩年には政宗に「その身体では鎧は着られまい」と軽い鎧を賜るほどで、中風と糖尿病などの肥満体質で羅漢する病気だったのではないかと考えられています。

中風とは、脳疾患の後遺症で半身不随や語源障害が起こるもので、布団から起き上がる事すら出来ない程だったと言われています。

1614年に起こった大阪の陣は、自身が病で参戦できないために息子の重綱を参陣させています。



「片倉小十郎」の死に様の信憑性

肥満体質だった「片倉小十郎」ですが「伊達家家臣家譜」という書記には「あまりに太りすぎていたため布団から起き上がる事すら難しかった」のと記載があるため、かなりの肥満体質であったことが伺えます。

直接の死因となった病気には脳疾患や糖尿病など諸説ありますが、肥満が原因だった可能性は高いでしょう。

家臣であるはずの小十郎の遺体が入った棺を、政宗自身の馬が運んだというエピソードも存在し、政宗の小十郎に対する信頼がより深く分かります。

「片倉小十郎」の小ネタ等

伊達政宗と言えばその隻眼が有名で、その光を奪ったのが小十郎だったというエピソードが存在します。

しかしこの説は当時の書物などから様々な説が唱えられており、政宗が幼少期の病が原因で右目が失明していた事は事実ですが、それを小十郎が斬って隻眼となったという明確な証拠はありません。

ただ、右目を失明し目玉が飛び出してしまっていた政宗に対して「自分で切断した方がよい」と助言し政宗が実行したなど、それに近い記載はあるようです。

まとめ

伊達政宗の右腕として生涯を政宗に捧げた小十郎ですが、数々の知識を生かし政宗を支えた重臣でした。

その最期は起き上がれなくなるほどの肥満から、病に侵されて亡くなるという戦国時代にはあまり聞く事がない死因でした。

しかしその能力は政宗に大きく認められていたのです。

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