「北条氏康」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「北条氏康」の死に際とは?日本の人物

越後の龍「上杉謙信」や甲斐の虎「武田信玄」と並び、相模の虎と称される戦国大名「北条氏康」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「北条氏康」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「北条氏康(ほうじょう うじやす)」とは?簡単に説明

「北条氏康」は、後北条氏3代目当主であり、先代「北条氏綱(ほうじょう うじつな)」の嫡男です。

越後の龍「上杉謙信」や甲斐の虎「武田信玄」と並び、「相模の獅子」と称され関東の覇権を争いました。

日本三大奇襲にも数えられる「河越夜襲」を仕掛け、危機を脱したり、防衛戦を制すなど軍事的才覚を発揮する傍ら、徴収制度や減税などの税制改革、徳政令など内政にも力を入れ、民衆の支持を得ました。

「北条氏康」の晩年と最期

永禄2年(1559年)に「北条氏康」は、家督を嫡子「北条氏政(ほうじょう うじまさ)」に譲り、隠居するも、実権を掌握していました。

永禄7年(1564年)から永禄8年(1565年)にかけて武蔵国(現在の東京都、神奈川県、埼玉県の一部)を平定し、武蔵国や下野国(現在の栃木県)の豪族たちの多くが服従します。

永禄9年(1566年)からは、戦の多くを息子たちに任せ、嫡男「氏政」への権力移譲も兼ねて実質的な隠居に入りました。

永禄11年(1568年)になると、今川氏の衰退に伴い、「武田信玄」が今川領に侵攻します。

「北条氏康」は娘婿でもある今川家当主「今川氏真(いまがわ うじざね)」を救援するため、武田氏との同盟を破棄して武田軍と対峙しました。

元亀元年(1570年)の8月頃から「北条氏康」「中風(ちゅうぶう/ちゅうふう)」とみられる病を患います。

「中風」とは、手足が麻痺したり、半身不随になったりする病のことで、現代でいう「脳卒中」とされています。

山内上杉家臣「大石芳綱(おおいし よしつな)」の記録によれば、この頃の「北条氏康」「噂ではあるが、呂律が回らず、子供の見分けもつかない、食事の際は食べたいものを指さすような状態で、意思の疎通も難しく、武田信玄が侵攻してきたことも分からないようだ」と記しています。

その後、「武田信玄」の侵攻への対応ができるくらいには快復したようですが、翌元亀2年(1571年)の5月10日を最期に文書の発給が停止されています。

そして、同年10月3日に「北条氏康」は小田原城にて死去します。

享年57歳でした。

「北条氏康」の死に様の信憑性

「中風」を患っていたとされていますが、詳しい死因については定かとなっていません。

また、「北条氏康」は当時、武田氏との再同盟を望んでいました。

真偽は不明ですが、「上杉謙信」との同盟を破棄し、「武田信玄」と同盟を結ぶよう遺言を残したとされています。

まとめ

「北条氏康」は、後北条氏3代目当主であり、「相模の獅子」とも称される戦国大名です。

「上杉謙信」「武田信玄」「今川義元」と関東の覇権を巡って、熾烈な戦いを繰り広げました。

晩年は「中風」を患い、一時快復はするものの、翌元亀2年(1571年)の10月3日に小田原城にて57年の生涯を終えます。

死因については定かとなっていません。

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