「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」でお馴染みの三傑・「徳川家康」。
江戸幕府を開き、泰平の世の礎を築いた末にどのような最期を迎えたのでしょうか? この記事では、「徳川家康」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「徳川家康(とくがわ いえやす)」とは?簡単に説明
「徳川家康」とは、後に江戸幕府を開き、徳川将軍家や御三家の始祖となる戦国大名です。
「織田信長」、「豊臣秀吉」と並べられ「三英傑」にも数えられます。
三河国(現在の愛知県東半部)に生まれ、幼くして「今川氏」の人質となりました。
その後、「織田氏」と同盟を結び、主要な戦に参加しますが、「本能寺の変」により「織田信長」が横死します。
「豊臣秀吉」政権下では、家臣として「五大老」に任命されました。
そして、秀吉の死後、「関ケ原の戦い」が起こりますが、徳川方東軍は「石田三成」ら西軍に勝利しました。
「徳川家康」の晩年と最期
慶長19年(1614年)に、「徳川家康」からの宣戦布告により、「豊臣氏」との間で「大阪冬の陣」が起こります。
そして、続く慶長20年(1615年)の「大阪夏の陣」にて「豊臣氏」を滅ぼしました。
「大阪の陣」後、元和元年(1615年)に朝幕関係を「禁中並公家諸法度17条」の制定によって規定します。
また、「武家諸法度」、「一国一城令」の制定によって、諸大名を統制しました。
これらの制定が、その後264年に及ぶ徳川天下の礎を築くことになります。
その後、元和2年(1616年)の3月21日に、朝廷からの任命により、史上4人目となる武家出身の「太政大臣」となりました。
ちなみに、前の3名は「平清盛」、「足利義満」、「豊臣秀吉」です。
そして、同年4月17日の巳の刻(午前10時ごろ)に、「徳川家康」は居城の駿府城にて生涯に幕を下ろします 享年75歳(満73歳4か月)でした。
「徳川家康」の死に様の信憑性
「徳川家康」の死因については、長らく「鯛の天ぷらに当たった食中毒による死亡」とする説が通説となっていました。
しかし、天ぷらを食した1月21日から、死去した4月17日まで、あまりにも時間が掛かりすぎているという疑問点が残っていました。
それに替わって挙げられているのが「胃がん説」です。
「徳川実紀」には、家康の病状が見る見るうちに痩せていき、吐血、黒い便、腹部に手で触って確認できるほどの大きなシコリがあったと記録されています。
この病状が胃がん患者の症例と似通っていることから、この説が有力視されているようです。
まとめ
「徳川家康」は、後に264年にも及ぶ徳川天下の礎を築いた戦国大名です。
「織田信長」や「豊臣秀吉」と並ぶ「三傑」であり、徳川将軍家や御三家の始祖でもあります。
江戸幕府を開いた後、慶長20年/元和元年(1615年)の「大坂の陣」にて勝利を収め、豊臣氏を滅ぼしました。
そして、翌元和2年(1616年)に75歳(満73歳4か月)で生涯を終えます。
死因は「食当たり説」が通説でしたが、最近では「胃がん説」が有力視されているようです。