「大内義長」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「大内義長」の死に際とは?日本の人物

戦国大名の「大内義長」とは、どのような歴史上の人物なのでしょうか?

おおまかな人生のあらましを簡単に解説して、その晩年・死に様について詳しく紹介していきます。

「大内義長」とは?簡単に説明

「大内義長(おおうちよしなが,1540・1532年~1557年)」とは、大内氏の最盛期を実現した大内義隆を「大寧寺の変(1551年)」で自害に追い込んだ陶隆房(すえたかふさ,陶晴賢)が傀儡(かいらい)として擁立した大内家の若き当主です。

しかし大内義長は大内義隆の子ではなく、義隆と争っていた九州地方の守護・大友義鑑(おおともよしあき)の子です。

義長の母親は「大内義隆の姉」なので、一応大内氏の血は継いでいます。

義長は形式的に大内氏の家督を継いだだけで、実権は陶晴賢が握っていました。

毛利元就と戦いますが、最期は敗れて長門の長福寺で自害に追い込まれました。



「大内義長」の晩年

「大内義長」「大寧寺の変」で謀反を起こした陶隆房(陶晴賢)に弱冠13歳(21歳)の頃に、「母方の大内家の当主」に擁立されて「18歳(26歳説もある)」で自殺に追い込まれた武将なので、晩年と呼べるほどの人生の長さはありません。

「大内義長」の父親は、九州で四ヶ国(豊後が本国・豊前・筑後・肥後)の守護をつとめていた大友家の20代当主・大友義鑑(おおともよしあき)です。

有名なキリシタン大名である21代・大友宗麟(おおともそうりん)は兄になります。

天文21年(1552年)に大内家当主として晴賢に担がれますが、弘治元年(1555年)に晴賢が「厳島の戦い」で毛利元就に討たれて求心力が低下しました。

弘治3年(1557年)、毛利氏が防長支配のために進軍して、義長は福原貞俊らに追い込まれて、長門長福寺で自害して果てました。



「大内義長」の死に様

「大内義長」は弘治元年(1555年)の「厳島の戦い」で実権を握っていた陶晴賢を殺され、防府と長門の支配を目論む毛利元就にさらに攻め込まれます。

義長は兄の大友義鎮(大友宗麟)に援軍を求めようとしましたが、義鎮は毛利氏と密約を結んでいたため要請に応じませんでした。

弘治3年(1557年)3月に、毛利氏が山口に攻め寄せますが、兵力の少ない義長はその大軍を防ぎきれずに高嶺城を捨てて、重臣・内藤隆世が守る長門・且山城(かつやまじょう)へ逃れます。

毛利氏の武将・福原貞俊(ふくはらさだとし)に且山城を囲まれると、義長の助命嘆願をしてから内藤は切腹しました。

しかし、且山城から長福寺(現・功山寺)に落ち延びた義長も力尽きて、4月3日に毛利の大軍に囲まれる中、自害して亡くなったのです。

享年18歳(あるいは26歳)。

「大内義長」の死に様の信憑性

大内義長が毛利氏の防長征服の過程で、戦(いくさ)に敗れて自害・切腹したことは史実であり信憑性があります。

長門国(現在の山口県下関市)の長福寺で毛利軍に包囲された義長は、自害を強要される状況で、「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」という辞世の句を残しています。

義長の生年は定かでないところもあり、享年は18歳説と26歳説があります。

まとめ

「大内義長」の大まかな人生の流れと晩年・死に様について分かりやすく解説しましたがいかがでしたか?

「大内義長」は、毛利元就配下の軍勢に攻め込まれて、長門国の長福寺に立てこもりましたが自害して死去しました。

「大内義長」の死に様について詳しくリサーチしたいときは、この記事の解説を参考にしてみてください。

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