「徳川家茂」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「徳川家茂」の死に際とは?日本の人物

佳人薄命「徳川家茂」の晩年とは?

この記事では徳川家茂の死に際、そして晩年について解説していきます。

「徳川家茂」とは?簡単に説明

徳川家茂は14代将軍で病弱だった家定の跡を継ぎます。

外国からの圧力、日本全国で大地震が連続、コレラと麻疹の大流行と国難の時期になんと13歳で将軍の座につきました。

南紀派の後押しはあったにせよ、文武両道かつ人徳に優れた優秀な将軍になる素養はあった人物です。

いかんせん若すぎる故に将軍後見職に徳川 慶頼(後に一橋慶喜)そして大老井伊直弼の存在があり実権は握れずじまい。

尊皇、攘夷、一橋派の復権と時代の波に翻弄された生涯を送ることになりました。



「徳川家茂」の死に様

三度目の上洛から丸々一年が過ぎた1866年7月20日家茂は脚気による心不全で亡くなっています。

享年21、仲睦まじかった和宮とも一年前に江戸を出立して以来会えずじまいでした。

家茂の病は「江戸煩い」…大坂で没したので「大阪腫れ」と言うべきでしょうか、脚気によるものでした。

1866年4月に反復性の胸の痛みを訴えた後に体調を崩します。

さらに6月には咽頭炎と腹部痛から満足に食事ができなくなってしまいます。

両足に浮腫も出て、食事も取れず身体も動かせずに病状は悪化の一途。

和宮により松本良順、多紀養春院、遠田澄庵と当時の幕府の医療幹部が派閥混成で大坂に送られます。

義理の兄である孝明天皇も漢方の名医たる高階典薬頭を遣わしますが容態は持ち直すことはできず、19日に危篤に陥ると翌20日亡くなってしまうのでした。



「徳川家茂」の死に様の信憑性

江戸時代の都市部では極めて高い罹患率を誇っていた病気が脚気です。

歴代将軍もその例外ではなく徳川家光は脚気を患い晩年苦しんでいたのは極めて有名な話です。

徳川家定もコレラとともに死因で疑われているのがやはり脚気。

脚気が悪化する要因を家茂は持ち合わせていました、それは大の甘党だったのです。

1960年の遺骨調査でもともとエナメル質の少ない、虫歯耐性の低い歯だったのも災いしたのでしょう。

健康な歯はわずか1本のみ、残り30本が虫歯だった事が判明しています。

虫歯や歯周病は心臓病に繋がるのは現代では常識ですが、これにより心臓脚気の症状があった家茂にはさらにダメージや進行の早さなどマイナスに働いたのかもしれません。

記述を確認すると解る通り、4月には脚気の初期症状、6月には全身性浮腫により喉や胃にまで浮腫ができていたと想像がつきます。

「徳川家茂」の晩年、和宮との仲とは?

家茂と和宮が仲睦まじい関係だったのは事実で『静寛院宮御側日記』にはそのやりとりがしばしば描かれています。

家茂が上洛のため出立を明日に控えた夜は二人でともに食事をし別れを惜しんだそうです。

これが永遠の別離になるとは誰しも予想がつかなかったことでしょう。

家茂が体調を崩してからは医師を派遣したのに加え、和宮も百度参りで回復を祈ったそうです。

まとめ

徳川家茂の晩年は上洛を立て続けにこなし、和宮との結婚生活でともに過ごせたのは、実質2年半程度でした。

政務の実権は握られてはいましたが、天皇に将軍職を返上、江戸へ帰ることを告げ、一橋慶喜の傀儡ではないことを証明しました。

幕臣からも慕われ、毒舌と言われた勝海舟からも認められた家茂。

人徳があり、久々に政務に興味のあった将軍だけにその早逝は大変惜しまれたことでしょう。

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