日本柔道の沽券を保ったソウル五輪柔道無差別級決勝は伝説!「斉藤仁」の散り際とは?
この記事では斉藤仁の晩年と散り際について解説していきます。
「斉藤仁」とは?簡単に説明
ロス五輪、ソウル五輪2大会における95キロ超級の金メダリスト。
特にソウル五輪では初日にロス五輪の金メダリスト「細川伸二」氏が不可解な判定で敗退。
71キロ級では人気実力を兼ね備え、五輪選手団の中でも屈指のスター選手であった「古賀稔彦」氏が破れ、不穏な空気が漂うなかで金メダルを獲得。
各競技での日本人選手へのブーイングの渦や不可解な判定で燻っていた日本人の溜飲を下げる特筆すべき活躍を見せました。
「山下泰裕」氏には勝てなかったもの、日本柔道界の沽券を保った活躍はより評価を受けて然るべきでしょう。
「斉藤仁」の晩年
2002年に夫人の実家のある大阪に家を購入。
子供たちの生活を優先して、拠点を大阪に移しました。
日本代表監督を退いても12年には全日本柔道連盟強化委員長に就任。
13年にはジュニア世代の人材の強化育成、そして人材確保のため強化合宿をスタートさせています。
さらには07年より母校である国士舘大学体育学部の教授を務めるなど多忙な日々は相変わらずのままでした。
それでも13年5月には二男が全国少年柔道大会で優勝するなど、公私に渡り充実していたのはまちがいありません。
しかし好事魔多し、それから7ヶ月後の12月に肝内胆管癌が発覚。
そして既に末期で手術を施すことができないほど進行していると告知されてしまうのでした。
「斉藤仁」の死に様
2015年1月20日2時56分に大阪府東大阪市内の市立総合病院で永眠。
54歳没。
死因は13年に発覚した肝内胆管癌の進行による癌性胸膜炎によるものでした。
「斉藤仁」の死に様の信憑性
重量級の選手でしたから、現役を引退した場合は身体が細く見えてしまうのは仕方ない事だといえます。
しかし14年11月に道場でのトレーニングで見せた姿には衝撃を受けた方も多いことでしょう。
頬の肉が完全に落ち、喉仏周辺の窪みにも異様な痩せ方を見せていました。
斉藤氏はインフルエンザ、胃潰瘍と話していたようですが、それが嘘なのは一目瞭然。
それもそのはず13年末に110キロあった体重は1年で30キロ落ち、80キロになってしまったからです。
死の間際まで時間があれば柔道の稽古に参加。
そして息子達に場所を問わず柔道のアドバイスを送っていたと言います。
亡くなる前日にも薄れゆく意識のなか2人の息子を稽古に送り出した事が明かされました。
二男の「斉藤立」氏が20歳にて全日本選手権を制覇。
24パリ五輪の代表有力選手になっていることから、今後新たな逸話が出てくるものと考えられます。
実際に22年10月にはスポーツドキュメンタリーの老舗『情熱大陸』で前述した件も取り上げられました。
まとめ
2015年1月20日2時56分に東大阪市立総合病院で逝去。
54歳没。
死因は13年に発覚した肝内胆管癌の進行に伴う癌性胸膜炎によるものでした。
斉藤氏の闘病生活は17年に『結婚したら人生劇変!〇〇の妻たち』22年に『情熱大陸』で少し語られています。
二男の立氏がパリ五輪代表の有力選手でもあるだけに今後散り際について新たな情報が語られる可能性は高いといえるでしょう。