「沢村栄治(さわむらえいじ)」とは?沢村栄治の晩年とその死に様について信憑性も含め以下に詳しく解説します。
「沢村栄治」とは?簡単に説明
沢村栄治は三重県出身のプロ野球選手で、日本プロ野球黎明期において伝説とも言える活躍をした不滅の大投手です。
日米野球ではベーブルースやルー・ゲーリックらメジャーリーガーを手玉に取り、アメリカにもその名を馳せています。
巨人の初代エースとしても活躍し、1936年の初優勝に貢献したのをはじめ、投手5冠、初代MVP、史上最多タイの3回のノーヒットノーラン達成など輝かしい記録を有しています。
「沢村栄治」の晩年
沢村栄治の兵役での任務はアメリカでもその名を馳せた有名なプロ野球選手であったことが災いします。
陸軍は最初の応招で来た沢村のために手榴弾投げという任務を準備していました。
この任務を律儀に務めた沢村は手榴弾の多投により大事な肩を壊してしまいます。
さらに左腕を銃撃され、マラニアにまで感染してしまうという始末でした。
それが災いして、その後球界に復帰しても以前のような活躍はできず、2回目の応招から復帰後、26歳で巨人軍を解雇されます。
「沢村栄治」の死に様
1944年(昭和19年)10月、三度目の招集を受けた沢村は京都の伏見連隊に入営します。
間もなくしてフィリピン防衛戦に向けて部隊の派遣が行なわれます。
その中に沢村も入っていました。
12月2日、未明、アメリカ潜水艦の「シーデビル」は東シナ海の屋久島沖製法150キロの地点に、フィリピンへ向かうに日本軍「ミ29千段」を発見します。
午前4時半、「シーデビル」は魚雷攻撃を開始し、輸送船の「はわい丸」と「安芸川丸」を撃沈します。
沢村栄治はこのどちらかの船に乗船していたとみられており、船の撃沈と共に27歳という短い生涯を閉じています。
「沢村栄治」の死に様の信憑性
沢村が乗船していたとされる輸送船撃沈後、戦死の報が実家に届きます。
ただし、戦死した状況から遺骨は無く、その死の様子を知るものもいないといった有様ですが、その後も生還していないことから信憑性は高いものと考えられます。
まとめ
沢村栄治のように、当時戦争で命を落とした野球選手は他にもいました。
同じ巨人で沢村とバッテリーを組んでいた捕手の吉原正喜はビルマで戦死しており、他にも沢村の好敵手であった強打者の景浦將や中河美芳、西村幸生など多くの名選手が戦場に消えています。
東京ドームにはこれら戦没したプロ野球選手73名の名前が刻まれた「鎮魂の碑」が建てられています。