忍者の代名詞として、今なお根強い人気のある甲賀忍者の「猿飛佐助」。
創作作品などにおいて、様々なキャラクターのモデルや元ネタとなっている「猿飛佐助」ですが、どのような晩年や最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「猿飛佐助」と彼の最期について解説していきます。
「猿飛佐助(さるとびさすけ)」とは?簡単に説明
「猿飛佐助」とは、講談や創作に忍術使いとして登場する「架空の人物」です。
「立川文庫」では、戦国武将の「真田幸村(さなだゆきむら)」に仕える「真田十勇士」のメンバーであり、筆頭を務めます。
「猿飛佐助」の伝承
「立川文庫」などによると、「佐助」は「鷲尾佐太夫」の息子として、信濃国(現在の長野県)の鳥居峠の麓に住んでいました。
戸隠山で猿の群れと戯れていたところを甲賀流忍術の開祖である「戸沢白雲斎」に見出されて弟子となります。
真田忍者の修行場だったとの伝説も残る角間渓谷で3年間、甲賀流忍術の修行をした後、そこを訪れた「真田幸村」の目に泊まります。
そして、「真田幸村」より「猿飛佐助幸吉(さるとびさすけゆきよし)」の名を授けられ、15歳の若さで仕えることになりました。
その後、「真田幸村」の命を受け、「猿飛佐助」は同じく「真田十勇士」のメンバーである「三好清海入道(みよしせいかいにゅうどう)」とともに、天下の情勢を探るために諸国漫遊の旅へ出ます。
最期
「立川文庫」などによると、「猿飛佐助」は主の「真田幸村」とともに豊臣方として、「大坂夏の陣」で徳川方と戦いますが、豊臣方は敗北。
戦死したとする場合や、生き残って「真田幸村」とともに薩摩(現在の鹿児島県)に落ちのびたとする場合があります。
「猿飛佐助」の由来やモデル
「猿飛佐助」のモデルや「猿」という名前の由来は、「最遊記」に登場する猿の妖怪「孫悟空」とする説があります。
また、上記以外にも「猿飛佐助」のモデルについては諸説あります。
・「三雲佐助賢春」
父の三雲賢持が甲賀53家のひとつで、佐々木家に近江国の郷土で仕えたとされています。
名前に「佐助」が入っていることから、彼がモデルとする説につながったようです。
・「猿飛仁助」
もともとは3000名の盗賊を率いる頭目でしたが、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の配下による説得を受けて、家来となり、豊臣秀吉の天下取りを手助けしたそうです。
・「上月佐助(こうづきさすけ)」 伊賀忍者の下忍である「下柘植ノ木猿」の本名が「上月佐助」であることから、彼がモデルとする説が生まれたようです。
・「横谷庄八郎(よこやしょうはちろう)」
真田家の配下である横谷左近の弟で、忍者であったことから「猿飛佐助」のモデルとする説があります。
まとめ
「猿飛佐助」とは、講談や創作に忍術使いとして登場する「架空の人物」です。
「真田十勇士」の筆頭として「真田幸村」に仕えました。
最期については、「大阪夏の陣」にて戦死したとする場合や、「真田幸村」とともに薩摩(現在の鹿児島県)に落ちのびたとする場合があります。