「徳川家綱」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「徳川家綱」の死に際とは?日本の人物

「武断政治」から「文治政治」へと切り換えた第4代将軍「徳川家綱」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「徳川家綱」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「徳川家綱(とくがわ いえつな)」とは?簡単に説明

「徳川家綱」は、江戸幕府第4代将軍となった人物です。

父である第3代将軍「徳川家光」の死後、10歳の若さで将軍職の跡を継ぎました。

そのため、前半は先代より仕えてきた「寛永の遺老」と称される重臣たちのサポートう受けながら、政治を執り行っていきます。

「家光」の代までは、「武断政治」と呼ばれる、権力・武力を掲げた強権的政治が敷かれていましたが、「徳川家綱」は力ではなく、法令をもって統制する「文治政治」へと方針転換します。

この政治方針は「徳川家綱」の後も、第7代将軍「徳川家継」まで継承されていきました。



「徳川家綱」の晩年と最期

男児に恵まれなかったこともあり、晩年になると、将軍の跡継ぎ問題が起こります。

その最中、延宝8年(1680年)の5月に入ると、病により、危篤状態に陥ってしまいます。

跡継ぎ問題は、重臣の勧めもあり、館林徳川家の初代であり、異母弟の「徳川綱吉」を養子に迎え、嫡子としました。

それまで維持されてきた徳川将軍家直系による世襲は、「徳川家綱」の代で終わりを迎えます。

そして、跡継ぎ問題が解決した直後の5月8日に、享年40歳で病没しました。



「徳川家綱」の死に様の信憑性

詳細は定かとなっていませんが、「心臓発作」などの急性の病気ではないかと云われています。

「徳川家綱」が行った政策

「徳川家綱」が行った以下の政策は「武断政治」から「文治政治」への転換を表しており、「3大美事」、もしくは「殉死の禁止」「大名証人制の廃止」を指して「寛文の2大美事」と評されています。

「末子養子禁止の緩和」
「末子養子」とは、嫡子のいない大名家が、お家断絶回避のために、緊急で縁組した養子を指します。

それまでは「末子養子」が禁じられており、取り潰しとなる大名家が後を絶たず、浪人も続出していました。

こうした状況を受けて、断絶防止や浪人救済のために「末子養子の禁止」は緩和されることになりました。

「殉死の禁止」
主君の死に際して、家臣や親族たちが後を追って自害することを「殉死」と言います。

しかし、中には強制的に「殉死」をさせられるケースもあったようです。

戦国時代の名残りで、それまで「殉死」は主君への忠誠心を示す行為であり、美徳とされていたのです。

これを「徳川家綱」は、家臣は主君ではなく、主家に仕えるべきであるとし、「殉死」を禁じました。

「大名証人制の廃止」
それまで、諸大名は妻子などを幕府に差し出さなければなりませんでした。

いわゆる「人質」です。

こちらも戦国時代の名残りであり、大名による幕府への反乱を防ぐ意図がありました。

しかし、下剋上の可能性がなくなったことから廃止へと至ります。

まとめ

「徳川家綱」は、江戸幕府第4代将軍となった人物です。

若くして将軍に就任し、先代まで敷かれてきた「武断政治」から「文治政治」へと政治方針を転換させました。

晩年、跡継ぎ問題に見舞われますが、問題解決直後の延宝8年(1680年)5月8日に病没します。

享年40歳でした。

詳しい死因は不明ですが、「心臓発作」などの急性疾患説が挙げられています。

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