「新美南吉」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「新美南吉」の死に際とは?日本の人物

ごん、お前だったのか。

いつもくりをくれたのは「新美南吉」の死に際とは?

この記事では新美南吉の晩年と死に際について解説していきます。

「新美南吉」とは?簡単に説明

言わずと知れた『ごん狐』が代表作に挙げられます。

1932年に生み出された同作は戦後1956年に初めて国語の教科書に採用されると70年代までに主要出版社の教科書に採用されています。

北の賢治、南の南吉と呼ばれる一方で同作以外の知名度は劣る部分はありますが、その作風はしばしば比較されて論じられるほど。

どことなく暗い作風、悲劇的な顛末の多いのは虚弱な体質だったからのか、時代の背景によるものなのか、シニカルさに特徴がある作家だと言っていいでしょう。



「新美南吉」の晩年

1939年には安城高等女学校の生徒達と富士山登山に出かける事ができる程に体調が回復、安定していた新美氏でしたが、太平洋戦争の足跡が忍び寄ると同時に体調を悪くしています。

しかし同時にこの時期が作家として体調が良く最も充実していた時期であったのは間違いないでしょう。

『良寛物語 手毬と鉢の子』を脱稿から間もなく腎臓病が再発し女学校を10日休んでいます。

既に童話作家としての認知度は広がり執筆依頼は多方面から来ていたもの身体がついていかないのは明らかでした。

41年年末に腎臓病が悪化、実家に戻るも病の進行は顕著となり42年を迎えています。



「新美南吉」の死に様

1943年3月22日8時15分、愛知県半田町字東山の実家の離れで逝去。

29歳没。

死因は結核によるものでした。

「新美南吉」の死に様の信憑性

死因に関しては喉頭結核によるものだと伝えられています。

それ以前に苦しんでいた腎臓炎との関連性についてはほとんど語られていません。

基本的には1934年に罹患した結核の進行に伴って亡くなったのが正確なところでしょう。

1942年1月12日の日記には腎臓結核との新婚生活が始まって、その2日目である事が明記されています。

よって一部資料にある1942年正月に腎臓炎と診断された箇所は腎結核によるものだと置き換えていいでしょう。

その後結核菌に身体を冒されて42年末の頃に咽頭へ到達。

12月の時点で喉の痛みと声が出にくくなった事が明かされています。

まとめ

1943年3月22日8時15分愛知県半田町字東山の自宅の離れで逝去。

29歳没。

死因は咽頭結核によるものでした。

1934年に結核に罹患。

腎結核の症状が比較的初期から出ていたもの、新美氏の日記で明確に確認できたのは42年1月のことでした。

腎結核との新婚生活との記述があり、改めて口頭で医師から余命を含めて厳しい現実を突きつけられたのではないでしょうか。

結核菌が咽頭に症状を発現したのはその年の年末の事でした。

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