徳川四天王や徳川十六神将にも数えられる歴戦の勇「榊原康政」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「榊原康政」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「榊原康政(さかきばら やすまさ)」とは?簡単に説明
「榊原康政」は「徳川四天王」や「徳川十六神将」の1人として数えられる戦国武将、並びに戦国大名です。
若い頃より「徳川家康」に仕え、徳川家臣として「姉川の戦い」や「三方ヶ原の戦い」、「長篠の戦い」などの主要な戦に参陣を果たします。
やがて「本能寺の変」が起こり、後に「徳川家康」3大窮地に数えられる「伊賀越え」では見事に主君を守り抜きました。
天正12年(1584年)に「豊臣秀吉」と「徳川家康」との間で起きた「小牧・長久手の戦い」では、「羽柴秀次」軍を追い詰め、敵将を討ち死にさせる働きを見せます。
「榊原康政」の晩年と最期
慶長4年(1599年)に、「石田三成」が「徳川家康」を伏見館にて誅殺する企みを耳にした「栢原康政」は迅速に馳せ参じます。
その際、護衛兵をなるべく多く見せかけようと、人の往来を抑えるために関所を設けます。
また、「主君を守るために集まった10万の兵のために、兵糧として饅頭、赤飯、餅、酒をひとつ残らず買い取る」と町中に触れ回せたそうです。
そして、翌慶長5年(1600年)に「関ケ原の戦い」が起こると、「榊原康政」は別働隊である「徳川秀忠」に従軍しますが、進軍中に敵将「真田昌幸」の妨害に遭い、本戦に遅参してしまいます。
「徳川家康」はこの大失態に対して、息子「徳川秀忠」に激怒しますが、「榊原康政」が取り入って事なきを得たと云われています。
慶長11年(1606年)の5月6日に毛嚢炎を患い、悪化した後、5月14日に上野国(現在の群馬県)館林城(たてばやしじょう)にて息を引き取ります。
享年59歳でした。
「榊原康政」の死に様の信憑性
没日の数日前に毛嚢炎を患ったようですが、死因については定かではありません。
また、「関ケ原の戦い」の件で「榊原康政」に恩のあった「徳川秀忠」は、医師を遣わせ、薬や見舞いの品を送ったそうです。
「豊臣秀吉」に指名手配される
「小牧・長久手の戦い」の折、「榊原康政」は「豊臣秀吉」の織田家乗っ取りを非難した檄文(げきぶん/自分の意見・主張を書いた文)を発しました。
これに「豊臣秀吉」は激怒し、「榊原康政」の首に10万石の懸賞金をかけたと云われています。
その後、「徳川家康」との和睦に際して、「榊原康政」とも和解しています。
まとめ
「榊原康政」は「徳川四天王」や「徳川十六神将」の1人にも数えられる戦国武将、並びに戦国大名です。
「徳川家康」に仕え、家臣として数々の主要な戦で活躍を果たし、主君のピンチを幾度も救いました。
また、「徳川家康」のみならず、「関ケ原の戦い」で大失態を招いてしまった「徳川秀忠」のピンチも救っています。
その後、慶長11年(1606年)5月14日に居城の館林城にて息を引き取ります。
享年59歳でした。