「徳川家斉」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「徳川家斉」の死に際とは?日本の人物

歴代将軍の中でも最長となる任期を務めた第11代将軍「徳川家斉」

腐敗政治に苦しむ民衆を傍目に、贅沢の限りを尽くしていたともされていますが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「徳川家斉」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「徳川家斉(とくがわ いえなり)」とは?簡単に説明

「徳川家斉」は江戸幕府第11代将軍となった人物です。

15歳にして将軍に就任したため、当初は老中首座「松平定信(まつだいら さだのぶ)」の主導で政治改革が行われました。

やがて、「松平定信」を罷免し、「徳川家斉」は財政を顧みない贅沢三昧な生活に入り浸るようになります。

自身と多くの側室、子供たちの生活費や「異国船打払令」をはじめとする海防政策が財政圧迫に拍車をかけました。

さらに、賄賂も横行し、「徳川家斉」の体制は財政破綻や腐敗政治を招きます。



「徳川家斉」の晩年と最期

晩年に至っても、「徳川家斉」は政治を側近任せにしていました。

長引く放漫な政治に民衆が不満を募らせる中、天保4年(1833年)に「天保の大飢饉」が起こります。

飢餓や米価の高騰に苦しむ民衆を前にしても、幕府は対策を講じず、それどころか、米を大量に買い占めていました。

民衆の不満はついに爆発し、天保7年(1836年)に甲斐国では「天保騒動」と呼ばれる百姓一揆が発生します。

さらに、天保8年(1837年)には大阪で「大塩平八郎の乱」が起こり、それに呼応して越後国では「生田万の乱」が起こるなど、反乱が続発しました。

同年、将軍の座を「徳川家慶(とくがわ いえよし)」に譲りますが、実権を掌握し続けます。

そして、天保12年(1837年)の閏1月7日、享年69歳で死去しました。



「徳川家斉」の死に様の信憑性

死因については定かではありませんが、亡くなる年に「疝痛」(腹部臓器の疼痛や腹痛のこと)により医者にかかっていたことから、「腹膜炎」が死因とする説も挙げられています。

放置されたまま死去したとも云われており、責任を問われ、侍医長が処罰された記録が残っているようです。

命日に関しては閏1月7日と記録されている一方、別の記録によれば閏1月30日とされ、幕府が「徳川家斉」の死を秘匿するためと推察されています。

子沢山だった「徳川家斉」

「徳川家斉」は正室の他に、16人の側室を持っていたとされ、さらに、その側室たちとの間に53人もの子供を儲けました。

まとめ

「徳川家斉」は江戸幕府第11代将軍となった人物です。

若くして将軍へ就任するも、やがて、政治を側近任せにし、自身は贅沢三昧の生活に入り浸りました。

加えて、その側近たちによる腐敗政治が続いた結果、幕府財政の破綻や不満を募らせた民衆の反乱を招いてしまいます。

幕政が傾いていく最中、天保12年(1837年)閏1月7日に69歳で死去しました。

死因については不詳ですが、「疝痛」を患っていたことから、「腹膜炎」が原因とする説が挙げられています。

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