「立花道雪」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「立花道雪」の死に際とは?日本の人物

この記事では、立花道雪の死に際について詳しく解説していきます。

「立花道雪」とは?簡単に説明

立花道雪は、九州豊前の大名である大友宗麟の右腕として活躍した戦国~安土桃山時代にかけての武将です。

大友宗麟はキリシタン大名としても知られており、最盛期には豊前、豊後、筑前、筑後、肥前、肥後の6か国を治める大大名でした。

大友家の躍進には軍神と呼ばれた道雪の活躍は欠かせません。

道雪は、永正10年(1513年)に大友家一族の戸次家の次男として生まれました。

14歳で父の戸次親家の名代として初陣を飾り、敵対する大内家の軍勢5000をわずか2000程度の兵で打ち破るという華々しい勝利を果たしました。

しかし、直後に父が亡くなり、道雪は14歳と言う若さで家督を相続することとなります。

その後も、国衆の反乱があったり、主家の内紛を収めたり、毛利家など敵対する勢力と戦ったりと九州各地で戦闘を繰り広げ活躍しました。

拡大していく大友家の右腕として活躍していた道雪ですが、どのような最後を迎えたのでしょうか。

「立花道雪」の晩年

10年以上続いた毛利家との戦いに、道雪の策略によって勝利した大友家でしたが、徐々に弱体化が始まります。

天正6年(1578年)に、大友宗麟が薩摩国の島津氏を強引に攻め、耳川の戦いで大敗したため、以降家臣の離反が相次ぐようになります。

道雪も、不利と見て耳川の戦いには従軍せず、主君の大友宗麟を批判しましたが、離反をすることはありませんでした。

耳川の戦い以降、島津氏に押される形となり、一進一退の攻防が続いていましたが大友氏は劣勢でした。

それに加え、肥前国の大名である龍造寺家が筑前国へ侵攻する事態が発生し、戦を避けるために領土を割譲して乗り切るなど、苦しい状況は続いていました。

「立花道雪」の死に様

しかし、龍造寺家の当主、隆信が沖田畷の戦いで戦死すると、道雪は攻勢に転じ、龍造寺方の城を次々と攻略していきます。

このときすでに70を超える老年であった道雪は、柳川城攻めの最中の陣中にて発病し、天正13年(1585年)に病死しました。

享年73歳でした。

「立花道雪」の死に様の信憑性

道雪は、『我が死んだならば、屍に甲冑を着せ、高良山の好己の岳に、柳川の方に向けて埋めよ。

これに背けば、我が魂魄は必ず祟りをなすであろう』という遺言を残しています。

養子として家督を相続していた立花宗茂は、遺言通りに死骸を捨ておくことを躊躇い、持ち帰ることを家臣に提案しました。

このような逸話が残っているので、陣中で亡くなったことは信憑性が高いといえます。

まとめ

以上、立花道雪の死にざまについて説明してきました。

この記事では触れませんでしたが、道雪は35歳の時に雷に打たれて下半身不随になっています。

晩年の戦いも輿にのって参陣していたといわれます。

そのような障害を持ってなお、家臣から慕われ尊敬されるような人柄と実力を持った道雪ですが、最後も遺言に背いて遺体を持ち帰ったことは、その人柄あってのことでしょう。

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