「中島らも」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解説

「中島らも」の死に際とは?日本の人物

中島らもの晩年や最期を分かりやすく説明します。

「中島らも」とは?簡単に説明

昭和27年に兵庫県尼崎市で生まれた中島らもこと中島裕之(ゆうし)は、小説家やラジオパーソナリティとして知られている人物で、劇団・笑殺軍団リリパットアーミーを率いて、自ら俳優としても活動していました。

名門進学校として名を馳せている灘中学校に成績上位で入学するほどの頭脳を持ち、その後進学した灘高校でギターなどの音楽に没頭することになり、このころから後にサブカルチャーと呼ばれるようになる様々なマイノリティ文化に触れるようになっていきます。

高校卒業後、一浪して大阪芸術大学芸術学部放送学科に進学したらもは、卒業後は会社員を経てコピーライターになり、昭和62年ごろから作家としての活動を開始しています。

作家としての知名度が上がるにつれて、アルコールの摂取量も増加し、ついにはアルコール中毒と診断されるようになってそれが原因でアルコール性肝炎を患ってしまいます。

その後、順調に作家活動を続けていたらもでしたが、平成16年7月15日、神戸市内で友人たちが開催したライブに飛び入り参加した後、打ち上げで飲んでいた飲食店の階段から転落してしまい、全身と頭部を強打したことによる脳挫傷で52歳で死亡しています。



「中島らも」の死に様

平成16年7月15日、友人である三上寛やあふりらんぽなどが神戸市内で開催したライブに飛び入り参加した中島らもは、ライブが終わった後に、三上と打ち上げで酒を酌み交わして一旦別れた後、関係者などと次の店で飲み続けることになりました。

翌日の16日未明まで飲み明かしてしたらもは、飲食店から退店する際に階段で足を踏み外してしまい、転落して全身と頭部を強打してしまいます。

すぐに病院に搬送されたものの、脳挫傷による外傷性脳内血腫を発症していたため、15時間にも及ぶ緊急手術を行いますが、脳が受けた重篤なダメージは計り知れず、自発呼吸さえできない状態に陥ってしまいます。

そのまま入院するものの、病院に運び込まれた時からまったく意識は戻ることはなかったため、事前にらも本人が希望していたことにより人工呼吸器を停止して、7月26日に52歳で永眠しています。



「中島らも」の死に様の信憑性

平成12年頃から処方されていた薬の副作用のため目のかすみなどが悪化していた中島らもは、このころから自分で文字を書くことができなくなってしまっていたため、妻の手を借りて口述筆記による執筆活動を行っていました。

この時期、持病の躁うつ病だけではなく、居眠り病と呼ばれるナルコレプシーも発症しており、数多くの処方薬を服用していたことに加え、従来からの飲酒も止めることができない状態だったらもは、常に酒か処方薬で酩酊していました。

闘病中であるにも関わらず、平成15年には麻薬及び向精神薬取締法違反と大麻取締法違反で逮捕されたらもは、翌平成16年に友人たちが開催したライブに参加した後、飲食店の階段から転落してしまい脳挫傷により亡くなってしまいます。

大量のアルコールに酩酊してしまったことで飲食店の階段から足を踏み外してしまったらもでしたが、晩年は躁うつ病などの処方薬などを常用していたことから常に酩酊しているような状態であり、この夜も処方薬を手放すことはなかったそうです。

「中島らも」の小ネタ等

中島らもは、自らが麻薬や大麻などで逮捕されて投獄された獄中体験を面白おかしく綴ったエッセイ「牢屋でやせるダイエット」を出版しています。

出版後、手錠姿でサイン会を開くなど、常にファンを驚かせてくれる楽しい人物でした。

まとめ

探求心にあふれたサブカルチャーのパイオニアとして知られる中島らもは、52歳の生涯を全うし、彼の残した多くの作品は今でもファンの心に刻まれていることでしょう。

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