「高橋紹運」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「高橋紹運」の死に際とは?日本の人物

「立花宗成」の父であり、「風神」の異名を持つ名将「高橋紹運」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「高橋紹運」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「高橋紹運(たかはし じょううん)」とは?簡単に説明

「高橋紹運」「雷神」と称される「立花道雪(たちばな どうせつ)」と並び、「風神」と称される戦国武将です。

「鎮西一」との武名名高い「立花宗成(たちばな むねしげ)」の実父でもあります。

大友氏の家臣・吉弘家の次男として生まれますが、後に立花氏の家督、及び岩家城と宝満城を継承しました。

その後は筑前国を「道雪」と共に任され、諸勢力を相手に北九州にて戦を繰り広げます。

しかし、大友氏は「耳川の戦い」で島津氏に敗れたことで、逆に諸勢力から侵攻を受けることになります。

「高橋紹運」の晩年と最期

天正12年(1584年)に当主を失った龍造寺氏が島津氏に臣従したことで、九州における島津氏の勢いは増していました。

「高橋紹運」「道雪」らと共に筑後へ遠征を行い、諸城を攻略していきます。

天正13年(1585年)には3万にも及ぶ筑前・筑後・豊前・肥前の連合軍を、「高橋紹運」らは1万足らずの軍勢で迎撃し、兵器や陣形など兵法を駆使して見事に撃退しました。

その後、天正14年(1586年)に大友領へ島津軍が侵攻してきます。

「高橋紹運」は岩屋城にて籠城戦を展開、それに対し、島津軍は度重なる降伏勧告をしますが、「高橋紹運」はこれを全て拒みました。

そして、開戦から半月後、島津軍はついに総攻撃へと乗り出し、高橋軍は多数の島津兵を道連れに総勢763名が玉砕、「高橋紹運」も激戦の最中、切腹して果てます。

享年39歳でした。

「高橋紹運」の死に様の信憑性

負傷した「高橋紹運」は高櫓へと登り、念仏を唱えてから切腹したと伝わっています。

「岩屋城の戦い」で勝利を収めた島津軍でしたが、「高橋紹運」の抵抗により多くの兵力を削られてしまい、立て直しを余儀なくされました。

この間に「豊臣秀吉」の軍が九州へと上陸したため、島津軍は薩摩まで撤退せざるを得なくなります。

「高橋紹運」らの決死の抵抗と引き換えに島津氏の九州制覇は頓挫することになったのです。

「高橋紹運」の評価

「高橋紹運」はその優れた知勇や厚い忠義心を多くの人物から絶賛されています。

「豊臣秀吉」「高橋紹運こそ乱世の華である」と評し、忠義に殉じた死を讃えると共に惜しんだと云われています。

「岩屋城の戦い」の後、「高橋紹運」の首実検が行われました。

島津軍総大将だった「島津忠長」「類まれなる名将を殺してしまった。

紹運殿は戦神の化身のようであった」
と評し、「彼とは最高の友になれただろうに」と地に正座し、家臣と揃って涙しながら手を合わせたそうです。

「ルイス・フロイス」はポルトガル本国へ宛てた文書にて「高橋紹運」のことを「稀代の名将」と報告しています。

まとめ

「高橋紹運」「立花宗成」の実父であり、「風神」の異名を持つ戦国武将です。

大友氏に仕え、同じ大友家臣である「立花道雪」と共に筑前国を支配しました。

天正14年(1586年)に侵攻してきた島津軍を岩屋城にて迎撃しますが、味方全兵士が玉砕する激戦の末に切腹して果てました。

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