妻子を見捨てた人でなし?「荒木村重」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「荒木村重」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「荒木村重(あらき むらしげ)」とは?簡単に解説
「荒木村重」とは戦国武将、並びに戦国大名でしたが、後に茶人となっています。
謀略の末に織田家臣となり、「織田信長」のもとで功績を挙げていきます。
その後、突如として任されていた「有岡城」にて謀反を起こし、逃亡の末に隠遁しました。
「荒木村重」の晩年
「織田信長」が「本能寺の変」で倒れ、「豊臣秀吉」が天下統一を果たした後、「荒木村重」は大阪の「堺」にて茶人として活動をしていました。
当時、荒木村重は過去の非道な行いを自虐し「荒木道糞(あらき どうふん)」を名乗っていたそうです。
ある日、同じ織田家臣だったよしみで「豊臣秀吉」と面会します。
その際に「豊臣秀吉」は、「荒木道薫(あらき どうくん)」へ名を改めさせました。
その後、「豊臣秀吉」の相談役として取り立てられます。
「荒木村重/荒木道薫」の最期
昔のよしみで「豊臣秀吉」に召し抱えられた「荒木道薫」でしたが、その後、問題を起こして主君の逆鱗に触れてしまいます。
処罰を怖れた「荒木道薫」は出家した後、天正14年(1586年)に大阪の堺にて死去します。
死因については不明ですが、享年52歳でした。
「荒木村重」にまつわる逸話
最後に「荒木村重」にまつわる逸話をご紹介します。
「織田信長」に「日本一の器量なり」と評される
織田家臣に加えてもらうため、「荒木村重」は「織田信長」と面会します。
「織田信長」は面会の折、突然、刀を抜き、剣先にまんじゅうを数個突き刺し、「食してみろ」と「荒木村重」に突きつけました。
この光景に周りの者は戦慄しますが、当の「荒木村重」は「ありがたくちょうだいします」と、剣先のまんじゅうを一口で食べてしまったそうです。
この豪胆さが「織田信長」に気に入られ、「荒木村重」は臣従を許されることになりました。
「織田信長」への謀反
「荒木村重」は天正6年(1578年)に突如、「織田信長」の命に背き、「有岡城」に立て籠もります。
謀反の理由については様々な説が挙げられていますが、定かとはなっていません。
戦局が苦境を極める最中、「荒木村重」は妻子を置き去りにして「有岡城」を脱出、「尼崎城」へと向かいます。
「織田信長」から数度に渡って寛大な条件で降伏を促されましたが、「荒木村重」はそれを全て拒否します。
その結果、「有岡城」に残された妻子や家臣とその家族たちは皆殺しにされてしまったそうです。
「荒木村重」の死に様の信憑性
死因については不明で、定かではありません。
まとめ
「荒木村重」とは戦国武将、並びに戦国大名であり、晩年は茶人として活動しました。
「織田信長」に仕えた後に謀反を起こし、逃亡した末に隠遁生活を送ります。
その後、茶人として活動していたところを「豊臣秀吉」に取り立てられるも、主君の逆鱗に触れてしまいました。
処罰を怖れた「荒木村重(荒木道薫)」は出家した後、大阪の堺にて生涯を終えます。
享年52歳でした。