江藤新平は幕末から明治維新期にかけて活躍した日本の政治家で、佐賀の乱を起こしたことでも知られます。
江藤新平の晩年と最期について紹介します。
江藤新平とは?
江藤新平は、1834年に佐賀藩士の家に生まれます。
藩校であった弘道館に入学しますが、尊王攘夷運動に傾倒するようになります。
脱藩して上京しますが、永蟄居の処分を受けてしまいました。
大政奉還によって幕府が無くなると処分を解かれ、明治政府に登用されて江戸の民政行政に携わります。
1871年には初代司法卿に就任し、司法制度の基礎を築きました。
1873年には参議となります。
西郷隆盛と共に征韓論を主張しますが、論争に敗れて辞職しました。
江藤新平の晩年
江藤新平は参議を辞職後、明治政府から東京に留まることを求められていました。
しかし、それには従わず佐賀に赴きます。
佐賀に帰郷した江藤新平は反政府勢力に推されて挙兵し、佐賀の乱を起こします。
佐賀の乱は佐賀を中心に、征韓党と憂国党の士族が結集して起こした反乱です。
征韓党の首領となった江藤新平は、憂国党の首領となった島義勇と共に決起しました。
しかし、大久保利通率いる政府軍によって鎮圧されてしまいます。
江藤新平は逃亡して西郷隆盛に会い支援を乞いますが、西郷には断られました。
その後、高知へ行って林有造や片岡健吉の元を訪ね武装蜂起するよう説得しようとしますが、ここでも受け入れてもらえません。
そして高知で捕らえられました。
江藤新平の最期
江藤新平は高知で捕らえられましたが、佐賀に送られそこで裁判にかけられました。
この時、取り調べを行ったのは司法省時代に江藤の部下だった河野敏鎌だったといいます。
河野敏鎌によって江藤新平は、梟首を言い渡されます。
弁明や釈明の機会はほとんど与えられませんでした。
そして、死刑判決が下ったその日に刑は執行されています。
江藤新平をめぐる逸話
江藤新平は司法卿時代、司法制度の確立や警察制度の整備など国家の近代化に大きく貢献しました。
江藤は民権という概念すらなかった時代に、士農工商の封建的な身分制度を廃止する四民平等を掲げたのです。
江藤は民衆の権利を守ることを大切にしました。
誰でも裁判を受けられるようになったのも江藤の功績になります。
しかし、江藤が佐賀の乱によって逮捕された後、望むような裁判が受けられたとはいえませんでした。
江藤の死刑は内務卿であった大久保利通の判断によるものであり、裁判が結審する前にすでに判決は決まっていたといわれています。
また、江藤新平は高知で逮捕されたのですが、それは手配写真が高知にまで出回っていたためです。
この手配写真の制度を確立したのがかつての江藤だったのは、皮肉としかいいようがありません。
まとめ
江藤新平は明治政府で司法制度の確立に貢献しますが、佐賀の乱を起こし死刑判決を受けます。
判決を受けたその日に刑は執行され亡くなりました。
享年41です。