この記事では、「水原弘」の晩年や最期を分かりやすく説明します。
「水原弘」とは?
水原弘とは、デビュー曲「黒い花びら」で知られる歌手です。
高校生の頃に活動していたジャズ喫茶でスカウトされ、1959年にレコード・デビューしました。
「黒い花びら」は大人気となり、その年だけで30万枚以上を売り上げています。
この年から始まった日本レコード大賞も受賞しており、NHK紅白歌合戦にも出場しました。
低音が甘く響く独特の歌声が、女性達から絶大な支持を集めたのです。
映画にも多数出演するようになります。
「水原弘」の晩年
水原弘は晩年、アルコール依存症を患っていました。
芸能界でも屈指の酒豪と呼ばれていた水原は、芸能界で成功すると夜の街に繰り出し豪遊していました。
高利貸しや闇金融から金を借り、莫大な借金を抱えていたといいます。
花札賭博に関わったことがあり、芸能界を追放されてしまいました。
その後「君こそわが命」という曲でカムバックしますが、再び放蕩生活に戻ってしまい借金の取り立てに追われる日々が続きます。
クラブやキャバレーを回って仕事をしていました。
長年のアルコールにより体も悲鳴を上げており、肝臓は機能しなくなっていったのです。
「水原弘」の死に様
水原弘は、1977年の1月に従業先で倒れてしまいます。
肝臓の状態が非常に悪く、アルコール性の急性肝炎から慢性肝炎、肝硬変へと移行していきました。
入院した後に自宅療養を行ったこともありましたが、1億円以上の借金を抱えていたため休むことはできません。
地方の営業を続け、全国各地を飛び回りました。
その間もお酒を飲み続けていたといいます。
そして、1978年に滞在先のホテルで倒れ、救急搬送されます。
その後、意識不明の状態に陥り亡くなりました。
享年42です。
「水原弘」の死に様の信憑性
水原弘の死因は、食道静脈瘤破裂です。
肝硬変が重症化したことで起こったものでした。
救急搬送された後には一時的に意識が回復し、マネージャーに「俺は死なない」ということを話したといいます。
しかし、内臓からはあちこち出血していて、すでに手が付けられない状態でした。
晩年には医師からお酒を禁止されていましたが、ストレスもあって止めることはできなかったようです。
まとめ
水原弘は晩年、アルコール依存症を患っていました。
体の状態は良くありませんでしたが、断酒することができずに肝硬変が悪化して亡くなります。
享年42でした。