「川村純義」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「川村純義」の死に際とは?日本の人物

川村純義は日本の海軍軍人で、晩年には昭和天皇の養育係を務めたことでも知られます。

その晩年と最期について紹介します。

川村純義とは?

川村純義は、薩摩藩士であった川村与十郎の長男として誕生しました。

1855年に長崎海軍伝習所に入所します。

戊辰戦争では各地を転戦し、大きな功績を残しました。

明治維新後は海軍の整備に尽力し、実質的な指導者として海軍を取り仕切ります。

西南戦争においては、山形有朋と共に総司令官として海軍を率いました。



川村純義の晩年

西南戦争が終わった後、川村純義は勝海舟に代わって海軍卿となります。

しかし、何事も独断で決めることが多かったことや薩摩系の人材ばかりを重用したことなどが問題となり、一度更迭されました。

ただし、後任となった榎本武揚を薩摩系の軍人たちが受け入れなかったので、再び海軍で辣腕をふるいます。

その後、海軍を離れ枢密顧問官となります。

そして、後の昭和天皇となる明治天皇の皇孫の養育係に任命されました。

このことから川村純義は、明治天皇から厚い信頼を寄せられていたことが分かります。



川村純義の最期

川村純義が亡くなったのは、1904年のことでした。

享年67です。

川村純義の屋敷で養育されていた昭和天皇と秩父宮雍仁親王は、川村が逝去したことで沼津を経て東京御所へ戻っています。

天皇の養育係として

昭和天皇と秩父宮雍仁親王は、川村純義が養育主任となり川村邸で養育されました。

今ではあまり考えられないことですが、当時の公家では他家で育つ方が健康になると言われていて、他家に里子に出す風習があったのです。

昭和天皇の親である大正天皇も養親に育てられています。

そのため将来天皇となる明治天皇の孫が、川村家で育てられることは自然なことだったと考えられます。

明治天皇と川村純義は元々懇意にしていて、明治天皇が川村家に遊びに来ることもあったといいます。

そのため孫の養育係として適任と考えたのでしょう。

川村と妻の春子は、国民の模範になるようにと躾には厳しく育てたといわれています。

兄弟は一緒に育った方がいいという考えから、弟の秩父宮雍仁親王も川村邸で養育されることになりました。

西郷隆盛との関係

川村純義の妻の春子は、明治維新の英雄として名高い西郷隆盛とはいとこ同士の関係にあります。

そのため川村は、西郷隆盛から実の弟のように可愛がられたといいます。

海軍で重用されたのは、西郷と親戚関係だったことも影響しています。

しかし、征韓論に敗れて西郷隆盛が下野した時には、川村はそのまま海軍に留まりました。

薩摩藩士の多くは、西郷と行動を共にしています。

西南戦争では、川村は政府軍の一員として西郷と敵対することになりました。

まとめ

川村純義は海軍の軍人として功績を残し、海軍の整備に尽力しました。

晩年は昭和天皇の養育係として、昭和天皇と弟である秩父宮雍仁親王の養育に妻の春子と共に務めました。

そして、67歳で亡くなっています。

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