「参勤交代」や「鎖国」を行ったことで知られる江戸幕府第3代将軍「徳川家光」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「徳川家光」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「徳川家光(とくがわ いえみつ)」とは?簡単に説明
「徳川家光」は、江戸幕府第3代将軍であり、第2代将軍「徳川秀忠(とくがわ ひでただ)」の次男(兄が早世したため嫡男として扱われる)でもあります。
将軍就任後は、大御所となった父「秀忠」と共に二元政治を行い、父の死後は、幕府の職務や権限を明確化し、組織を洗練しました。
また、全国の大名に対しては「参勤交代」を制度化し、幕府による支配力を強化させます。
対外貿易の統制やキリスト教の禁止・弾圧も行いますが、後の寛永14年(1637年)に「島原の乱」が勃発、これを鎮圧しました。
「徳川家光」の晩年と最期
対外政策として、段階的に貿易や渡航、出入国に関わる管理、制限を敷き、寛永18年(1641年)頃には「鎖国」体制が出来上がりました。
しかし、翌寛永19年(1642年)に「寛永の大飢饉」が起こり、国内経済は深刻なダメージを受けます。
「徳川家光」は農民統制のため、寛永20年(1643年)に「田畑永代(でんぱたえいたい)売買禁止令」を発令しました。
また、翌正保元年(1644年)には国土基本図の編纂事業として、全国の大名に「国絵図」や「城絵図」の作成を命じました。
一方、国外では、同時期に中国の「明」王朝が滅び、「清」王朝が台頭したことで、体制の再編に追われます。
慶安3年(1650年)に病気を患い、翌慶安4年(1651年)の4月20日(6月8日)、江戸城にて死去、 享年48歳でした。
「徳川家光」の死に様の信憑性
記録によれば、「徳川家光」は献上された茶碗を眺めていたところ、急に体が震えだし、そのまま卒倒してしまい、翌日に死去したと残されています。
数日前には歩行障害とみられる症状が出ていたこともあり、死因は「脳卒中」とされています。
病気がちだった「徳川家光」
幼少の頃の「徳川家光」は病弱で、吃音もあったと云われています。
また、20代の頃には「脚気」を患い、「天然痘」にも罹っていました。
それが影響してか、養生法として、風邪をひいたときなどは布団を5、6枚かぶり、さらに厚着をして寝るということをしていたため、かえって病状を悪化させていたという逸話も残っています。
まとめ
「徳川家光」は江戸幕府第3代将軍となった人物です。
国内では諸大名に対して「参勤交代」を制度化、国外に対しては「鎖国」体制をとるなど、強権的な武断政治を敷き、国内政治の安定と江戸幕府の支配を盤石にしていきました。
晩年に「寛永の大飢饉」や「清」王朝台頭に伴う対応に追われた後、慶安4年(1651年)の4月20日(6月8日)に死去します。
記録によるところ、死因は「脳卒中」とされています。