大相撲の横綱やプロレスラーなどで活躍した北尾光司は55歳という若さで亡くなっています。
今回は、第60代横綱の双羽黒として知られる彼の死因に迫ります。
「北尾光司」とは?簡単に説明
昭和38年に三重県津市で生まれた北尾光司は、大相撲出身のプロレスラー兼格闘家で、大相撲の横綱時代には双羽黒(ふたはぐろ)光司という四股名で活躍していました。
小学校に上がるころにはすでに相撲に取り組み始めていた北尾は、中学に上がるころには同年代の力士ではすでに歯が立たないほどの実力を身に付けており、中学卒業後には角界へと進んでいきます。
入門当時で身長195cmの体躯を誇り、22歳にして大相撲の横綱に上り詰めた北尾は「双羽黒」と改名して、そのまま横綱街道を進んでいくかに見えましたが、度重なる故障や師匠たちとの衝突により大相撲を廃業してプロレスラーを目指すことになります。
元横綱として期待されたプロレス界入りでしたが、入門した新日本プロレスにおいても現場責任者たちとのトラブルにより退団せざるを得なくなり、その後格闘家に転身するものの、期待されたほどの成績を残すことはできずに現役を引退しています。
その後、表舞台から遠ざかっていた北尾は平成31年、慢性腎不全により、55歳で亡くなっています。
「北尾光司」の死に様
平成31年2月10日、北尾光司は入院していた千葉県の病院で55歳で死去しています。
死亡する6年ほど前から腎臓を患っていた北尾は、40代の中盤を迎える頃には悪化していた糖尿病により、ほぼ寝たきりの状態で家族の介護を必要とする療養生活を送っていました。
同じ時期に両足首に床ずれができ、担当医師から両足首の切断を勧められるほど、その傷口が悪化してしまいますが切断するまでには至らず、平成30年ごろから人工透析を始めています。
しかしながら糖尿病は末期の段階にまで進行し、ほとんど何も見えなくなるほど視力も悪化して、意識も朦朧とし始めていた北尾は、この時期自分の娘を認識することすらできなくなっていき、最終的には慢性腎不全を発症して死亡しています。
「北尾光司」の死に様の信憑性
格闘家を引退後、16年ぶりに相撲界と和解し角界に復帰した北尾光司でしたが、すでにこの時期、長年に渡る暴飲暴食の影響により重度の糖尿病に罹患していました。
そして日曜大工中に自身で傷つけてしまった右足の傷口が化膿して悪化してしまい、その傷が少しずつ腐敗していき、ついには担当医師から両足首を切断するように勧められてしまいます。
切断することは固辞し、闘病生活に入っていきますが、引退したとはいえ、当時の体格は身長2m、体重140kgの巨漢だったため、妻と娘の介護は筆舌に尽くしがたいほどの激務で、妻である淑恵さんは介護による身体のダメージから椎間板ヘルニアを発症してしまいます。
妻や娘の献身的な介護に大変心を痛めていた北尾は、当時自殺未遂を起こしていますが、死には至らず、その後少しずつ腎臓機能が低下していき、ついには55歳で永眠しています。
「北尾光司」の小ネタ等
北尾光司は大相撲の横綱を廃業した時点で、力士褒賞金の持ち給金はわずか169円しか残っていませんでした。
横綱に上がるまでは絶対的な強さを誇っていた北尾は横綱に上るや否や、怪我がちにになり、横綱としては一度も優勝できなかったことが原因と言われています。
まとめ
昭和38年に生まれた人気力士たちは「花のサンパチ組」と呼ばれ人気を博しており、その出世頭として相撲界を賑わせた北尾光司は55歳で亡くなっています。
わずか22歳11ヶ月での横綱昇進や、プロレスラーに転向後のインパクトは今でも数多くのファンの胸に焼き付いています。