「聖武天皇」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「聖武天皇」の死に際とは?日本の人物

この記事では、聖武天皇の晩年や最期について紹介します。

聖武天皇とは?

聖武天皇は奈良時代の天皇で、文武天皇の皇子として生まれました。

714年に立太子となり、724年に元正天皇から譲位され第45代天皇として即位します。

藤原氏との関係を深め、藤原不比等の娘を皇后としました。

皇后はそれまで皇族から選ばれることになっていたので、その慣例を破ったのは聖武天皇が初めてです。

聖武天皇は仏教を深く信仰しており、東大寺や国分寺、国分尼寺を建立しました。

また、たびたび都を移したことでも知られています。



聖武天皇の晩年

聖武天皇は晩年、仏教に深く帰依していました。

災害や天然痘などの疫病が起こり、政情が不安定だったためです。

また、聖武天皇は藤原不比等の娘を光明皇后として皇后にたてましたが、それに反対していた長屋王が藤原氏の四兄弟によって抹殺されるという事件がありました。

長屋王の変と呼ばれています。

多発する災害や疫病は、長屋王の祟りだともいわれていました。

それを鎮めるためか聖武天皇は、遷都を行ったり寺院を建立したりします。

都を恭仁や難波、紫香楽などに移しましたが、反発を受けて平城京へ戻しています。

遷都を行うことで災いから逃れようとしたものの、逆に混乱を招いてしまいました。

東大寺を建立したり、盧舎那仏を造立してもいます。

何度も繰り返した遷都や東大寺の建立といった大事業により、国家の財政は悪化しました。



聖武天皇の死に様

聖武天皇は749年、皇太子である阿部内親王に譲位し出家します。

娘である阿部内親王が皇太子となったのは聖武天皇が男子に恵まれなかったためです。

光明皇后との間に男子である基王が誕生しますが、1年程で夭折してしまいました。

聖武天皇には皇后以外の夫人との間に皇子もいましたが、藤原氏の影響もあり阿部内親王が皇太子となった経緯があります。

聖武天皇は天武天皇の孫である道祖王を阿部内親王(孝謙天皇)の皇太子とするよう遺言を残し、756年に56歳で亡くなります。

聖武天皇の死に様の信憑性

聖武天皇が阿部内親王を天皇としたことで、後継者問題には禍根が残りました。

聖武天皇が皇太子として指名したのは道祖王ですが、聖武天皇の死後に廃太子となり獄死しています。

まとめ

聖武天皇は晩年、仏教に深く帰依し東大寺や国分寺を建立しました。

災害や疫病から逃れるためでしたが、それにより国家の財政は傾きます。

そして、娘の阿部内親王に天皇の位を譲り、56歳で亡くなりました。

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