幕府始まって以来の国難に?「徳川家慶」の晩年とは?
この記事では、「徳川家慶」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「徳川家慶」とは?簡単に説明
徳川家慶は徳川家斉の次男であり、45歳で第12代将軍に就任しました。
父・家斉とは宗教の違いで折り合いが悪かったのに加え、息子・家茂の暗殺を寵臣が企てたとも言われています。
それもあり家斉は64歳で将軍から退くも大御所として権力を握り続けたため、家慶は実質10年程度の実働期間でした。
父家斉は政務を放置していたこともあり、水野忠邦を主導として天保の改革を実施しています。
家斉が放蕩な時代だった事で家慶の緊縮政策は破綻の憂き目を見るのでした。
「徳川家慶」の晩年
家慶はその晩年、幕府始まって以来の国難に見舞われました。
言わずとしれた黒船来航ですが直後に体調を崩し、その1ヶ月後には亡くなったため黒船に対して施策を行ったわけではありません。
本当の晩年とも言える数年、これといった痕跡も残さずなにもしていないというのが史実でしょう。
天保の改革、アヘン戦争、琉球にフランス船、江戸城本丸火災は1840年代の出来事でした。
嵐の前の静けさか、家慶の晩年は黒船来迎まで内政、外政とも大きな出来事がなかったのも事実です。
このために“何もしていない、残していない将軍”という不名誉なレッテルを貼られてしまい、定着してしまうのでした。
「徳川家慶」の死に様
6月3日にペリー来迎、5日に家慶に報告があがると即時に日光東照宮へと足を運んでいます。
6月7日に日光東照宮で祈祷を済ませて江戸への帰路へ着くも、12日に暑気あたりで体調を崩してしまいます。
そのまま1ヶ月後に息を引き取りました、享年61のことでした。
死因は熱中症とも言われますが、うっ血性心不全とも言われています。
8月4日増上寺で葬送式が行われています。
「徳川家慶」の死に様の信憑性
一説によれば家慶はペリーから白旗が二本送られてきた事を老中・阿部定広から聞き、卒倒して翌日そのまま亡くなった説がありますが信憑性はありません。
ペリーの白旗論争は平成に入ってから長く議論されていましたが、既に浦賀奉行は白旗の意味合いを1544年には知っていた史料が見つかっています。
幕府で国政を担当していた阿倍定広が、意味を知らないわけはありません。
少なくとも家慶が卒倒する内容(降伏or武力行使)ではなかったはずです。
日光東照宮での祈祷時に長距離移動所以の熱中症により体調を崩し、その後心不全に陥った。
その説が一番信憑性が高いでしょう。
まとめ
徳川家慶は我が子家定に跡を継がせることが不安だったものの老中阿部定広と幕府の嫡子、年長者を優先する勅に従います。
結果的に5年ほどではありますが、この期間に大きく幕府の求心力は削がれていくことになるのでした。
開府以来最大の国難が起きた矢先に亡くなり、松平春嶽から受けた「凡庸の人」の評価を汚名返上できないままでした。
黒船来迎で開国、社会的には各地で大地震が勃発し「安政の大地震」が起きています。
また家定の死因と言われるコレラの大流行、4年後の麻疹の大流行。
没後の10年は厄災の連続で社会情勢は悪化、強力なリーダーシップのある将軍の必要に迫られましたが、後継の家定にその役は果たせませんでした。
家慶が慶喜を世嗣ぎにする英断をしていたらどうなったのか?と思わずにはいられません。