この記事では、塩田剛三の晩年や最期について紹介します。
塩田剛三とは?
塩田剛三とは東京出身の武道家で、合気道の会派である養神館合気道を設立した人物として知られています。
合気道の開祖である植芝盛平の高弟でした。
18歳の頃に植芝に出会い、簡単に投げ飛ばされたことに驚嘆して植芝に弟子入りします。
小柄な体ながら卓抜した技量を持ち、見事な演武で多くの人を魅了したといわれています。
また、格闘技漫画「グラップラー刃牙」に登場する柔術家・渋川剛気のモデルにもなりました。
塩田剛三の晩年
塩田剛三は1955年に合気道の会派である養神館合気道を設立します。
合気道養神会を結成して、新宿に道場を構えました。
塩田剛三は日本の実業家で政治活動家でもあった田中清玄の秘書を長年務めていました。
また、田中の秘書になる前には陸軍軍人である畑俊六の秘書を務めており、台湾や中国など海外に派遣されたこともあります。
その秘書時代に構築した人脈により、養神館合気道を設立するに至ったのです。
1961年には師である植芝盛平から当時最高位であった合気道九段の免状を受けています。
また、塩田剛三のエピソードとしてロバート・ケネディのボディガードとの手合わせがあります。
ロバート・ケネディ夫妻が養神館を表敬訪問した折、塩田剛三は演武を披露しました。
そして、塩田の強さを訝しむケネディがボディガードに手合わせを促すと、塩田はこれを圧倒しました。
それを見たケネディは後に回顧録で、まるで蜘蛛がピンで張り付けられたように屈強なボディガードが小柄な先生に取り押さえられてしまったと書いています。
その後、国内だけではなく海外にも合気道を普及させることに尽力しました。
塩田剛三の死に様
塩田剛三は、1994年に亡くなりました。
享年78です。
晩年も元気に合気道の普及に努めていましたが、胃がんで入院しそのまま退院することなく亡くなっています。
塩田剛三の死に様の信憑性
塩田剛三は胃がんが判明して入院するまで、元気な姿を見せていました。
海外にも積極的に合気道を伝える活動を行っています。
塩田剛三の死後には、三男である塩田泰久が養神館の館長に就任しました。
父について合気道の修行に専念していた人物です。
まとめ
塩田剛三は晩年も合気道の普及に努め、海外にも合気道を伝える活動を行っていました。
そして胃がんにより入院し、78歳で亡くなっています。