「藤原良房」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「藤原良房」の死に際とは?日本の人物

前例のなかった皇女との結婚や、人臣最初の摂政に就任するなど華麗な経歴を持つ「藤原良房」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では、「藤原良房」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「藤原良房(ふじわらのよしふさ)」とは?簡単に説明

「藤原良房」は、平安時代の公卿であり、皇族ではない人臣最初の摂政に就いた人物です。

「摂関政治」(天皇家と外戚関係を結び、摂政・関白として天皇に代わり、政治を行うこと)を最初に行った人物ともされています。

「この世は自分ためにあるようなものだ」と歌を詠んだ「藤原道長(ふじわらのみちなが)」でも有名な「藤原北家」繁栄の基盤を築き上げました。

左大臣の父の元に生まれ、後に「嵯峨天皇」の皇女を娶るという前例のない待遇を受けます。

その後も、出世や「承和の変」による謀略を経て、勢力拡大を図っていきます。



「藤原良房」の晩年と最期

天安2年(858年)、「文徳天皇」が崩御し、「藤原良房」の外孫である「惟仁(これひと)親王」(後の清和天皇)が幼くして即位します。

この時、「藤原良房」は摂政に就いたとも云われていますが、正史「日本三大実録」「清和天皇」即位の内容に関して、摂政の記録がないことや、当時「摂政」は皇族のみ就任することができました。

したがって、「藤原良房」は摂政ではなく、太政大臣として「清和天皇」を後見したと考えられています。

貞観6年(864年)の冬になると「藤原良房」は大病を患い、政務から身を引きました。

貞観7年(865年)に病状は回復するものの、翌年に「応天門」が焼失する事件が発生します。

事件の折、「清和天皇」「摂政宣下(せっしょうせんげ)の詔(みことのり)」「藤原良房」に与え、「藤原良房」は皇族ではない「人臣最初の摂政」となりました。

天皇に代わって政務を行う権利を得た「藤原良房」は、事件の犯人として「伴善男(とものよしお)」らを失脚させます(応天門の変)。

ライバルたちを排斥し、朝廷における「藤原氏」の勢力を盤石とする傍ら、法整備にも取り組み、律令の補助法令である「貞観格式」を編纂しました。

そして、貞観13年(871年)には「准三后(じゅさんぐう)」(太皇皇后・皇太后・皇后の三宮に准じた待遇)を与えられますが、貞観14年(872年)の9月2日に流行病により病没します。

享年69歳でした。



「藤原良房」の死に様の信憑性

流行病により、病没したとされています。

まとめ

「藤原良房」は、平安時代の公卿であり、出世や謀略を利用して「藤原北家」繁栄の基盤を築き上げた人物です。

後に「藤原氏」によって執り行われる「摂関政治」の基礎を創り上げたとも云われています。

貞観8年(866年)に起きた「応天門の変」に際し、「清和天皇」より「摂政宣下の詔」を与えられ、「人臣最初の摂政」に就任しました。

そして、貞観14年(872年)の9月2日に流行病により病没します。

享年69歳でした。

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