「長宗我部元親」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「長宗我部元親」の死に際とは?日本の人物

長宗我部元親は、四国の覇者として知られる戦国武将です。

現在の高知県である土佐国を統一したのを皮切りに、四国全土を平定していったことで知られています。

どのような晩年を過ごし、最期を迎えたのでしょうか。

長宗我部元親とは?

長宗我部元親は、戦国時代に土佐で勢力をのばした豪族の一人・長宗我部国親の長男として誕生します。

父の死により家督を継ぐと、次々に勢力を拡大していきました。

四万十川の戦いに勝利したことで土佐統一を成し遂げ、阿波や讃岐、伊予など周辺の地域を制圧します。

しかし、豊臣秀吉との戦いに敗北して降伏すると、土佐以外の領地は没収されてしまいました。

そして豊臣秀吉の配下となりますが、愛息を失い人が変わってしまったようになるなど波乱の生涯を送っています。



長宗我部元親の晩年

長宗我部元親の晩年は、家督継承問題や家臣達の争いが起こるなど混乱の中にありました。

そのきっかけとなったのは、元親の長男・信親の死でした。

豊臣秀吉の配下となっていた元親は、秀吉の九州征伐に信親と共に従軍します。

しかし、島津家久が率いる勢力との争いの際に、信親は命を落としてしまいます。

その知らせを受けた信親は、悲嘆にくれて息子の後を追おうとしたのを家臣に止められたといわれています。

それを機に、元親は大きく変わってしまいました。

以前は家臣の意見をよく聞き入れ、器の大きな信頼できる君主であったと評判です。

それが一変して家臣の意見には耳を貸さなくなり、元親の意見に反対する者を粛清するなど非道な行いが目に付くようになったとされます。



長宗我部元親の最期

長曾我部元親が亡くなったのは慶長4年のことで、享年61歳でした。

病気療養のために滞在していた伏見屋敷で死去しており、病死でした。

この時、死期を悟った元親は自分の跡目を四男である盛親に託しています。

長宗我部元親にまつわる家督争い

長宗我部元親の嫡男であった信親は、22歳という若さで亡くなってしまいます。

自分の後継者と期待していた息子を亡くした元親は、がっくりと肩を落としました。

そして溺愛していた四男の盛親に後を継がせようとするのですが、反対の声も大きくありました。

香川氏の名跡を継いでいた元親の次男・香川親和や津野家に養子として送り込んでいた三男の津野親忠の存在があったからです。

家督をめぐる争いは家臣を巻き込んで大きくなり、元親は反対派の意見を聞き入れず家督継承を強行します。

親忠のことは嫌っており、幽閉してしまいました。

ちなみに盛親は元親の死後、元親の思惑通りに長宗我部家の跡を継ぎます。

盛親は、兄である親忠を殺害しました。

しかし、豊臣方と徳川方が争った大坂の陣では、盛親は豊臣方に組したため敗北し斬首されてしまいます。

結局、長宗我部氏は滅び、盛親は最後の当主となったのでした。

まとめ

長宗我部元親は、長宗我部氏の行く末を見届けることがないまま病によって亡くなります。

自分が後継に選んだ四男の盛親の死によって、長宗我部氏は滅亡するのです。

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