鶴松が無事息災であったら、大きく歴史は変わり、秀吉が勘気に奔ることもなかった?
この記事では豊臣鶴松の生涯と最期について解説します。
「豊臣鶴松」とは?簡単に説明
豊臣鶴松とは豊臣秀吉待望の長子であり、淀殿との間に生まれた初子になります。
既に当時高齢の域に差し掛かっておた秀吉に思わぬ誤算とも言うべきもので、彼が生まれた時に残された文書には好々爺の大層な喜びが記されているのでした。
長寿を願い、当時の庶民の間に流行していた信心である棄て子はよく育つとの願掛けから幼名は棄と呼ばれている文献が多くなっています。
「豊臣鶴松」の死に様
幼くして豊臣家の筆頭後継者としての期待が高まった鶴松ですが、彼もまた秀吉の実子としての遺伝子を継いだのか、身体が丈夫というわけではありませんでした。
1590年の夏に発した病こそ乗り切りましたが、天正19年閏1月3日に発病したことにより、全国の仏閣に病気平癒の祈祷が出されたことが記録に残っています。
回復こそはしたもののその年の夏8月2日に発病。
再度神社仏閣に病気平癒の祈祷が行われたものの、その三日後の天正19年8月5日に力尽きてしまいました。
まだ二歳を過ぎたばかりでした。
「豊臣鶴松」の死に様の信憑性
天下人の息子、長子でもあるだけに文献には多々記載があります。
室町時代からの歴史文献としてお馴染みとも言える奈良興福寺多聞院で書かれた多聞院日記にも彼の生誕、そして死没についての記載は残されています。
菩提寺ともなる正法山寺妙心寺には法名の記載が残されているとともに、蒲生氏郷の贈った大百足退治の伝説のある鏃から作った刀や遺物が保存されています。
「豊臣鶴松」の小ネタ等
弟にあたる幼名・拾丸こと豊臣秀頼も実子ではない説が、当時から風説の流布がされていましたが、鶴松についても実子ではない説が当時から散見されます。
代表的なのはルイス・フロイスが天下人・秀吉に息子が誕生したことを失笑しているかの記述を残していることでしょう。
聚楽第の落書き事件での激昂はさもあらず。
近年では祈祷で生まれた可能性を指摘している歴史学者も多く、捨・鶴松は秀吉公認で拾丸・秀頼は秀吉非公認の祈祷で生まれたと分析している書籍が主流になりつつあります。
まとめ
豊臣鶴松は天正19年8月5日に病没しています。
わずか二歳と数ヵ月でのことでした。
死因については不明ですが、極めて病弱だったのは間違いありません。
生まれてから二年の間に病気になった記述は三度ほどあり、亡くなった19年は二度に渡って神社仏閣に回復への祈祷を行うほどの体調不良に陥ったことが記述が残っています。
また名医をかき集めたともされていますが、回復はかないませんでした。