「清少納言」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「清少納言」の死に際とは?日本の人物

謎多き女?「清少納言」落ちぶれたと言われる晩年とは?

この記事では「清少納言」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「清少納言」とは?簡単に説明

枕草子の作者として名前が知られているのが清少納言です。

歴史に興味がない方でも清少納言と紫式部、この二人の名前は知っていると言う人が大多数だと思います。

清少納言は枕草子を書いた人物で職業を作家と勘違いされる方も多くいます。

中宮定子の女官こそ本職で、彼女からの信頼が厚かったことを感じさせるエピソードや文才だけでなく地頭の良さが伺える逸話が残されています。

しかし中宮定子の逝去により、運命の歯車が大きく変わり始めるのでした。

「清少納言」の晩年

敬愛する中宮定子は第二皇女・?子内親王を産んだ直後に崩御すると清少納言はそれに伴い宮仕えをやめることとなりました。

それ以降は歴史の表舞台に登場することが少ないため、単発で他の文献にてその姿を確認することしかできません。

清少納言は晩年落ちぶれてボロ屋に住んでいるところが描かれているのは複数の文献に記載されています。

『古事談』は説話集で現代のタブロイド紙に近い四方山話が多数掲載され、凋落した清少納言の悪口を言った男の前に現れ、鬼婆の形相でやりこめてしまった話。

『無名草子』においては、かつては栄華を極めたけれど、落ちぶれて乳母とともに田舎にうつりすみ、つぎはぎだらけのボロを着て宮中で女房衆だった頃の栄華を懐かしんでいるのが“いとあはれ”だとも書かれていました。

実際は中宮定子の墓「鳥辺野稜」の近く、泉涌寺周辺の山荘を借りて暮らしていたと言われています。

過去の主とともに歩んだ栄華の時代を忘れられず、東山の山の中で侘しい生活を送っている事を揶揄したのかもしれません。

「清少納言」の死に様

清少納言の死に様に関しては全く記録が残っていないと言っていいでしょう。

晩年についてもほとんど知られておらず、伝承としてこの地で過ごしたのではないかと語られているだけです。

没年は1025年頃が濃厚ですが生年もはっきりしていないため、60歳前後で亡くなったと言われています。

「清少納言」の死に様の信憑性と伝承について

死に様について書かれた文献はありません。

唯一死に様の描かれた伝承として徳島の天塚があります。

かつて父の領主だった里浦に尼僧の姿で現れて、辱しめを受ける前に陰部を抉って切り取り投げつけ姿を消し、尼塚を建てたと言うものでした。

古事談の清原致信と源頼親の話を改変したものだと思われ、信憑性は皆無です。

まとめ

清少納言の晩年、死に際に関してはほとんど資料がのこっていないため不明。

ただし彼女は中宮定子を敬愛していたこと、そして幼少期の体験から鄙な場所は好きではないことは容易に想像できます。

墓所伝のある場所でこれに合致しそうなのはやはり平安京。

都に戻り中宮定子の墓守をしていた晩年というのは存外信憑性の高い真実なのかもしれません。

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