初代内閣総理大臣だったかもしれない男?
尊王攘夷派の公家として知られる「三条実美」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「三条実美」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「三条実美(さんじょう さねとみ)」とは?簡単に説明
「三条実美」は公家の名門「三条家」に生まれました。
やがて、家督と共に父の尊王思想を継ぎ、尊王攘夷派の公家として活動していきます。
同派の長州藩と協力し、将軍「徳川家茂」へ攘夷決行を訴えるも、敵対派閥が「ハ月十八日の政変」と呼ばれるクーデターを起こします。
これにより、長州藩は京都から追放され、「三条実美」ら7名の公家も長州へと落ち延びることになりました(七卿落ち)。
その後、明治維新が起こると新政府の副総裁に任命され、後に太政大臣へと就任します。
「三条実美」の晩年と最期
明治18年(1885年)に太政官制から内閣制度への移行に伴い、「三条実美」は内大臣へと就任しました。
明治22年(1889年)に黒田内閣が総辞職となった際、「明治天皇」は内閣総理大臣「黒田清隆」のみ辞任させ、残りの閣僚には任を継続することを命じました。
この時、臨時の内閣総理大臣を内大臣の「三条実美」に兼任させることで、内閣存続を図ったのです。
2か月後、内閣総理大臣には「山縣有朋」が選ばれ、第一次山縣内閣の発足に伴い、「三条実美」は内大臣専任へと戻ります。
この2か月間を「三条暫定内閣」とする場合もありますが、基本的には「黒田内閣の延長」として扱われ、「三条実美」は内閣総理大臣には含めないという見解で一致しているようです(歴代内閣総理大臣では「黒田清隆」の次は「山縣有朋」となっている)。
そして、明治24年(1891年)の2月18日にインフルエンザにより病没します。
享年55歳でした。
「三条実美」の死に様の信憑性
死因はインフルエンザとされています。
初代総理大臣になっていたかもしれない男?
内閣制度移行の際、初代内閣総理大臣候補として推挙されていたのが「伊藤博文」、そして「三条実美」です。
「伊藤博文」は「宰相」として新政府の中枢を担っていましたが、低い家柄の出身でした。
対して、「三条実美」は「太政大臣」を務めていた上に、公家の名家出身ということで、その差は明確となっていました。
しかし、会議の最中、「井上馨」の放った一言がその差を覆します。
「これからの総理は(英語で書かれた)外国電報が読めなくてはダメだ」「伊藤博文」は若い頃に「長州五傑」としてイギリスへ留学しており、英語や欧米文化に精通していました。
これには、「三条実美」支持派も反論ができず、初代内閣総理大臣には「伊藤博文」が選ばれることになったのです。
まとめ
「三条実美」は幕末に尊王攘夷派の公家として活動していました。
政変により、一時は長州藩と共に京都より追放されるも、明治維新後に政務へ復帰を果たします。
明治新政府では重職を歴任し、内閣制度発足後は「内大臣」へと就任しました。
その後、インフルエンザに罹ったことにより、明治24年(1891年)の2月18日、55年の生涯に幕を下ろしました。