越後の龍「上杉謙信」の軍師としても知られる「宇佐美定満」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「宇佐美定満」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。
「宇佐美定満(うさみ さだみつ)」とは?簡単に説明
「宇佐美定満」は「上杉謙信」に仕えた戦国武将であり、「上杉四天王」や「上杉二十五将」、「越後十七将」に数えられる人物です。
軍記物語などに登場する「宇佐美定行(うさみ さだゆき)」のモデルとされるなど、「謙信」の軍師として描かれることが多いですが、史料に乏しいことから、実績や実像については不明な部分が多いとされています。
もとは越後国の上条上杉氏に仕えていましたが、後に長尾氏に仕えました。
やがて、長尾氏は「長尾景虎(ながお かげとら)」(後の上杉謙信)が相続し、「宇佐美定満」もこれに臣従します。
「宇佐美定満」の晩年と最期
天文20年(1551年)に「謙信」の家督相続に不満を抱く「長尾政景(ながお まさかげ)」が謀反を起こすと、征伐戦に参加し、戦功を挙げました。
永禄2年(1559年)に「謙信」が上洛すると、「宇佐美定満」は太刀を献上して、これを祝ったとされています。
永禄3年(1560年)の関東出陣にも従軍し、「謙信」が関東管領職と山内上杉家の家督を継いだ際は、「御先士大将」として名を連ねました。
永禄7年(1564年)に「政景」に招かれ、野尻池に舟を浮かべ、酒盛りをしていたところ、舟が転覆してしまい、「政景」と共に溺死してしまいます。
享年78歳でした。
「宇佐美定満」の死に様の信憑性
野尻池での溺死に関しては、謎が多く、「謙信」に対して反抗的だった「政景」を「宇佐美定満」が謀殺しようとしたとも云われています。
謀殺に関しては「謙信」の命令とする説や「宇佐美定満」の独断とする説があります。
ちなみに、上杉家は「謙信」の後に「政景」の嫡男である「景勝(かげかつ)」が相続しますが、この事件が影響してか、その後「宇佐美氏」は疎まれ、没落していきました。
「宇佐美定行」が創作された経緯
江戸時代、「宇佐美定満」の孫を名乗る「宇佐美定祐」が甲州流軍学(武田信玄の兵法を参考にした軍学)に対抗して、越後流軍学を広めていました。
その過程で、「宇佐美定満」をモデルに「宇佐美定行」が創作されたと云われています。
創作上での「宇佐美定行」の描写が影響し、モデルである「宇佐美定満」も軍師として扱われることが多いようです。
まとめ
「宇佐美定満」は「上杉謙信」に仕えた戦国武将です。
「謙信」の軍師としても知られ、軍記物語などでは「宇佐美定満」をモデルとした武将が登場しますが、史料に乏しいこともあり、実のところ不明な部分が多い人物でもあります。
永禄7年(1564年)、野尻池にて舟遊びをしていたところ、舟が転覆してしまい、ともに酒盛りをしていた「長尾政景」と共に溺死しました。