若かりし頃は全共闘と闘った武闘派「町村信孝」の散り際とは?
この記事では町村信孝の晩年と散り際について解説していきます。
「町村信孝」とは?簡単に説明
凜として力強い日本・北海道を掲げて政治家として奔走した人物と言っていいでしょう。
「福田赳夫」氏が設立した自民党の派閥『清和政策研究会』において06年から「森喜朗」に代わり会長に就任、町村派を2014年まで形成していました。
97年の初入閣以降、文部大臣、初代文部科学大臣、外務大臣、内閣官房長官を歴任。
2000年代を代表する政治家だと言っていいでしょう。
「町村信孝」の晩年
2012年9月に自民党総裁選に出馬中に体調不調を起こし、開票1週間前に検査入院するなど晩年の体調不調は誰の目からも明らかだったと言えるでしょう。
その後11月には脳梗塞だと判明、加療を余儀なくされています。
復帰後2014年12月には衆議院議長に就任。
しかし10年以上自民党の中心人物として走り続け、初入閣以降要職を務め続けた勤続疲労や精神的負担などもあったのでしょうか。
再度病魔に身体を蝕まれてしまうのでした。
「町村信孝」の死に様
2015年6月1日14時15分、東京都内の入院先で逝去。
70歳没。
死因はかねてから発症していた脳梗塞によるものでした。
「町村信孝」の死に様の信憑性
2007年に内閣官房長官に就任時に町村派は町村氏の多忙により会長職を廃止したことは象徴的。
常人には計り知れない肉体精神両面での疲弊があったのは間違いないところでしょう。
10年で脳梗塞は再発の可能性はおよそ50%、再発時には重症化しやすいのはよく知られたところ。
しかし町村氏の場合は当初再発はしたもの症状は軽いとされていました。
経緯は15年4月14日に脳梗塞が再発。
16、17日に検査入院をしたうえで辞任に踏み切っています。
20日辞表を提出後に会見を開いており、その時には言葉に不明瞭な点や呂律が回っていない等の様子は感じられませんでした。
実際に辞任会見は動画として残っており、多くの方はそれほど深刻な様子には思えなかったはずです。
本人の言葉に“いささかでも”のフレーズがある通り、重篤で今すぐに症状が悪化急転するとは思ってもみなかったことでしょう。
12年9月の脳梗塞の際も総裁選を辞退しないことを会見で公表していましたが、その時も言葉に不明瞭な点はありませんでした。
このため誰もが前回同様に数ヶ月の入院で現場に戻ってくるだろうと思っていたのは間違いありません。
まとめ
2015年6月1日14時15分、都内の入院先で逝去。
70歳没。
死因は脳梗塞によるものでした。
12年9月、15年4月に脳梗塞を発症していますが、軽度と発表した通りに自身で会見を行えるほどのものでした。
2つの会見の動画は残されており今でも確認可能です。
両会見ともに呂律、言葉に不明瞭な点は感じられませんでした。
脳梗塞は発症する事に重症化しやすいため、恐らく入院中に起こした脳梗塞が致命的なものになったと思われます。
しかし3度目以降の脳梗塞の発症の有無など詳細については公表されていません。