「菅原道真」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「菅原道真」の死に際とは?日本の人物

「学問の神様」としても親しまれている「菅原道真」ですが、どのような最期を迎えたのでしょうか?

この記事では「菅原道真」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「菅原道真(すがわらのみちざね)」とは?簡単に説明

「菅原道真」とは平安時代の貴族であり、漢学者の身分から、後に右大臣にまで出世しました。

学者の家に生まれた「菅原道真」は若い頃より秀才ぶりを発揮し、貞観16年(874年)には「従五位下(じゅごいのげ)」に叙され、元慶元年(877年)には「文章博士(もんじょうはかせ)」と呼ばれる高い位へと就任します。

やがて、「阿衡事件」と呼ばれる政治紛争が起こり、事件における「菅原道真」の対応を評価した「宇多天皇」に重用されました。



「菅原道真」の晩年と最期

寛平5年(893年)に「菅原道真」は宇多天皇により参議兼式部大輔に抜擢され、公卿につらなります。

宇多天皇が退位し、醍醐天皇の世になると、昌泰2年(899年)に最高官位である左大臣に次ぐ右大臣へと昇進しました。

しかし、「菅原道真」はもともと学者の家系であり、家格も高くはありませんでした。

そんな、「菅原道真」が宇多上皇の後押しで、重職に就いたことに家格の高い者たちは反感を抱きます。

また、同年に宇多上皇が突如、出家してしまい「菅原道真」は政治的な後ろ盾を失ってしまいました。

そして、昌泰4年(901年)に左大臣「藤原時平(ふじわらのときひら)」「菅原道真が醍醐天皇を廃して、娘婿である斉世親王の即位を目論んでいる」と醍醐天皇に讒言します。

これにより、「菅原道真」「大宰府」(現在の福岡県)に左遷されてしまいます(昌泰の変)。

そして、謹慎生活の最中、左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日に亡くなります。

享年59歳でした。



「菅原道真」の死に様の信憑性

「大宰府」では「太宰員外帥」という名ばかりの役職に付けられ、政務にあたることも許されず、給与すら与えられませんでした。

衣食住もままならない生活を強いられ、窮死へ追い込まれたとも云われています。

怨霊として恐れられた後、神様へ

「菅原道真」が非業の死を遂げた後、京の都では怪死事件が続発します。

延喜8年(908年)に「藤原菅根(ふじわらのすがね)」が雷に打たれて絶命し、翌年には「藤原時平」が病没しました。

さらに、延喜13年(913年)には右大臣「源光(みなもとのひかる)」が鷹狩り中に泥沼に落ちて溺死、延喜23年(923年)に「醍醐天皇」の皇太子「保明親王」が21歳で崩御します。

そして、延長8年(930年)、会議が行われていた「清涼殿」を雷が直撃し、多くの公卿たちが死亡(清涼殿落雷事件)、これを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、数か月後に崩御してしまいます。

これら一連の災禍は「菅原道真」の祟りとされました。

怨霊を鎮めるため、天歴元年(947年)に「菅原道真」を神として祀る「北野天満宮」が建設されます。

やがて、「菅原道真」は神格化され、「天神様」「学問の神様」として崇められるようになりました。

まとめ

「菅原道真」は平安時代の貴族、学者であり、後に右大臣にまで出世を重ねます。

しかし、謀略により「大宰府」へ左遷された後、困窮した生活を強いられた末に没します。

享年59歳でした。

後に神として祀られ、「天神信仰」の対象や「学問の神様」とされました。

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