「伊能忠敬」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「伊能忠敬」の死に際とは?日本の人物

伊能忠敬は、自らの足で歩いて測量し日本地図を作った人物として知られています。

伊能忠敬の晩年と最期について紹介します。

伊能忠敬とは?

伊能忠敬は上総国の生まれで、18歳の時に佐原村の伊能家の婿養子となりました。

伊能家は酒や醤油づくりを営む名家でしたが、当時は没落しかけていたといいます。

忠敬は商才があったようで、酒造業を再興したり米の仲買いなどを行って財を築きました。

名主として村のために尽くし、飢饉が起きた際には貧しい人々に米や金銭を与えたりもしています。

そして家督を長男である景敬に譲って隠居した後、江戸に出て天文学や測量を学ぶことにしました。

第二の人生の始まりです。



伊能忠敬の晩年

上京した伊能忠敬は、天文学者であった高橋至時に弟子入りします。

忠敬よりも大分年下でしたが、忠敬は師匠のことを尊敬していたようです。

至時は、忠敬に授時暦という古くからの歴法から西洋の天文学を取り入れた学問などを教えています。

忠敬は寝る間を惜しんで勉学に励み、天体観測についても学んでいます。

自宅に天文台を作って実際に観測を行っています。

至時は蝦夷地の正確な地図を作る計画を立てて幕府に願い出ました。

その事業を担当することになったのが忠敬です。

1忠敬が55歳の時、弟子を連れて測量の旅に出ました。

半年ほどかけて測量を行い、戻ってきてから地図の製作に取り組んでいます。

その後、範囲を全国に広げ、17年という歳月をかけて日本地図を作り上げます。

忠敬が用いた測量方法は当時としてはオーソドックスなものでしたが、正確かつ入念に行うことで高い精度の日本地図を実現できたのです。



伊能忠敬の最期

伊能忠敬が亡くなったのは、測量作業を終えて日本地図を作成している時でした。

その頃には体の衰えが目立っており、病床に就くことが多かったといいます。

そして74歳でその生涯を閉じました。

伊能忠敬の死後

忠敬が亡くなった時には日本地図は完成しておらず、それを完成させたのは忠敬の弟子たちです。

忠敬の師である高橋至時はすでに亡くなっていましたが、至時の息子である高橋景保が中心となり地図を完成させました。

伊能忠敬をめぐる逸話

伊能忠敬が行った測量には幕府から手当が出ていますが、それでは足りず忠敬はかなりの私財を投じています。

若い頃に商人として莫大な利益を得たからこそ成し遂げられたともいえるでしょう。

また、飢饉が起きた時に貧しい人々を助けたのは飢えている人を助けたいという思いがあったからですが、商人として農民に打ちこわしを起こされても困るという面もあったようです。

実際、餓死者が出る程の飢饉に見舞われた時にも、佐原村では餓死者は出ておらず打ちこわしも起こりませんでした。

まとめ

伊能忠敬は天文学や測量を学び、日本全国を17年かけて歩いて測量を行っています。

74歳で亡くなりました。

その後半生は地図作りに捧げたといっても過言ではありません。

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