「葛飾北斎」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「葛飾北斎」の死に際とは?日本の人物

今なお、世界的に評価されている絵師「葛飾北斎」はどのような最期を迎えたのでしょうか?
この記事では、「葛飾北斎」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「葛飾北斎(かつしか ほくさい)」とは?簡単に説明

「葛飾北斎」は江戸時代の絵師であり、江戸から発展した町人文化「化政文化」を代表する1人です。

「葛飾北斎」の作品は、後に海外からも評価され、ヨーロッパを中心に「ジャポニスム」と呼ばれるムーブメントを巻き起こしました。

10代で絵師になる道を志した「葛飾北斎」は、浮世絵師「勝川春章」に師事し、修行を積んだ後に弱冠20歳でデビューを飾りました。

やがて、「宗理美人画」で一躍人気を博した後に独立し、重要文化財に指定される「二美人図」「富嶽三十六景」をはじめ、多くの作品を手掛けていくのでした。



「葛飾北斎」の晩年と最期

1839年(天保10年)に火事に巻き込まれてしまい、10代の頃から描き溜めていた画図や道具などを全て失ってしまいました。

もともとお金がなかった「葛飾北斎」は、割れた徳利の破片をパレットに、底の部分を筆洗いに代用していたようで、その有り様は乞食のようだったとも云われています。

1842年(天保13年)に2度目の脳卒中に襲われ、利き手が不自由となりながらも、日課として「獅子の略筆画」を描き続け、後に奇跡的な回復を遂げています。

そして、1849年(嘉永2年)、「富士越龍図」を完成させた3ヶ月後の4月18日に享年90歳で永眠しました。



「葛飾北斎」の死に様の信憑性

作品を描き上げた後は床に臥せるようになり、まもなく永眠したとされています。

生涯貧しかった「葛飾北斎」

若くしてデビューを果たした「葛飾北斎」ですが、生活は貧しく、うちわや灯篭に絵を入れたり、唐辛子売りなどの副業をやりつつ、生計を立てていました。

「絵の仕事だけは餓死してでもやり遂げる」と朝早くから夜遅くまで絵を描いていたそうです。

人気絵師となった後でも貧しい生活は変わらず、浮世絵から挿絵など片っ端から絵を描いて生活費を稼いでいました。

通常の倍の報酬を受け取っていたにもかかわらず、「葛飾北斎」が生涯貧しかったのは、お金にとんでもなく無頓着だったためとも云われています。

お金をもらっても数えもせずに机に置いたままな上、逆に支払いのときも数えずにお金を投げ渡していたという逸話が残っています。

まとめ

「葛飾北斎」「二美人図」「富嶽三十六景」などの作品で知られる江戸時代の絵師です。

浮世絵をはじめとする「葛飾北斎」の絵は、海外で「ジャポニスム」と呼ばれるムーブメントを巻き起こし、「ゴッホ」「モネ」などの画家のみならず、作曲家や工芸家など世界の芸術家に大きな影響を与えました。

幼い頃から晩年に至るまで「葛飾北斎」は生涯に渡って絵を描き続け、1849年(嘉永2年)に生前最後の作品を完成させた後、同年4月18日、90年の生涯に幕を下ろしました。

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