「近衛文麿」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「近衛文麿」の死に際とは?日本の人物

この記事では、「近衛文麿」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「近衛文麿(このえふみまろ)」とは?簡単に説明

「近衛文麿」は日本の第34代、第38代、第39代内閣総理大臣を務めた政治家です。

藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った「五摂家」の1つ「近衛家」の第30代当主であり、第107代天皇「後陽成天皇」の12世孫に当たる人物でもあります。



「近衛文麿」の晩年と最期

第二次世界大戦が起こった翌年の1940年、第二次近衛内閣が発足し、「日独伊三国同盟」が締結されました。

当時、泥沼化していた日中戦争を収束させるべく、「近衛文麿」は中国を支援していたアメリカの輸出ルートを遮断するため、仏印(=フランス領インドシナ)進駐を図ります。

1940年に内閣を総辞職し、翌年に第三次近衛内閣が発足すると、「近衛文麿」は仏印進駐を推し進めますが、これに怒ったアメリカは日本への石油輸出を差し止めました。

窮地に立たされた日本はアメリカとの交渉を試みるも、話がまとまらず、日米開戦の道を選ばざるを得なくなるのでした。

このとき、「近衛文麿」「私は戦争に自信がない、自信のある人にやってもらわなければならない」と述べ、同年に第三次近衛内閣は総辞職となります。

戦局が日本の形勢不利となると、「近衛文麿」は天皇に対し、早期講和を訴える「近衛上奏文」を奏上しました。

1945年8月に日本の敗北で太平洋戦争が終結すると、「日中戦争」「仏印進駐」の責任を問われ、「近衛文麿」はGHQ総司令部より「A級戦犯」として出頭を命じられます。

そして、同年12月16日、「近衛文麿」は青酸カリで服毒自殺、54歳でこの世を去るのでした。



「近衛文麿」の死に様の信憑性

「近衛文麿」が服毒自殺する前日、弟の「秀麿」は兄の憔悴した顔から自殺を図っていることを察知し、毒物がないか家中を探し回りました。

毒物が見つからなかったことにより、兄に自殺の意図はないと安心した「秀麿」でしたが、このとき、「近衛文麿」は青酸カリを肌身離さず持ち歩いていたのです。

そして、「秀麿」が午前3時頃、「近衛文麿」の部屋へ行ったところ、兄はすでに帰らぬ人となっていたそうです。

まとめ

「近衛文麿」は日本の第34代、第38代、第39代内閣総理大臣を務めた人物です。

日本の敗北により太平洋戦争が終結すると、戦争の責任を問われ、GHQ総司令部より「A級戦犯」として出頭を命じられます。

それから10日後の1945年12月16日、「近衛文麿」は青酸カリによる服毒自殺で54歳の生涯を終えるのでした。

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