事故死?過労死?リングで力尽きた「三沢光晴」。
この記事では「三沢光晴」の晩年と最期について解説します。
「三沢光晴」とは?簡単に説明
全日本プロレスに入門、若手時代から「越中詩郎」とともに有望株として注目。
海外武者修行を経て「二代目タイガーマスク」として帰国し、人気を博します。
その後突如マスクを脱ぎ、「天竜源一郎」が離脱した団体の顔として活躍。
「ジャンボ鶴田」が病気で離脱後はエースとして全日本プロレスを支えました。
「ジャイアント馬場」死去後は社長に就任するも馬場夫人との関係悪化から独立し、『プロレスリング・ノア』を設立。
自身の理想とするプロレスに邁進するのでした。
「三沢光晴」の晩年
業界老舗団体の新日本プロレス、全日本プロレスが凋落傾向を見せるなかで、ノアは三沢と「小橋建太」との名勝負を刻みます。
しかし興業成績が次第に悪化していきます。
2006年以降ダブルエースとも言えた小橋が腎臓癌や怪我により、フル出場が厳しいなか、三沢は社長であるがゆえにファンのためにも興業成績のためにも休めない過酷な状況で試合に臨んでいくのでした。
もともと酒豪ではあったもの晩年は現実逃避のため、酒量が増えて、それが如実に体型にも現れるようになっていました。
「三沢光晴」の死に様
2009年6月13日に広島で行われた興業で、チャレンジャーとしてタッグマッチのタイトル戦に出場。
「齋藤彰俊」のバッグドロップを受けた後にリング上で意識不明の状態に陥ります。
リングドクターに蘇生処置を受け、緊急搬送されるも既に心肺停止の状態。
22時10分搬送先の広島大学病院で死亡が確認されています。
46歳没。
死因は頭部を強打したことによる頸髄離断によるものでした。
「三沢光晴」の死に様の信憑性
この当時の最強レスラーとも言われた三沢の死は日本テレビ系列以外の地上派でもトップニュースで扱われています。
また東京スポーツはもとより一般スポーツ紙でも一面で大きく報道されました。
そしてクローズアップされることとなったのは数日前の東京スポーツのインタビューで本人が身体がつらくてやめたいと話していたことでしょう。
危険な角度で大技を受ける過激なプロレスを全日本プロレス時代から続けており、蓄積されたダメージは相当のものでした。
あとから明らかになったのは既に頸椎に骨棘が増殖し、日常生活にも支障を与えていたこと。
原因不明の視力障害、神経障害に悩まされていたと言います。
まとめ
「三沢光晴」は2009年6月13日のプロレスリング・ノア広島大会で行われたタッグマッチに出場。
対戦相手のバッグドロップを受けた際に頭部を強打して昏倒し、心肺停止となりました。
緊急搬送された先の病院で22時10分に死亡が確認されています。
46歳没。
死因は頭部強打の際に頸髄離断、ほぼ即死だったと言って間違いありません。
20年来の大技を危険な角度で受ける激しいプロレススタイルで蓄積されたダメージは日常生活にも支障をきたす相当なものでした。
春に日本テレビでの中継が打ち切りとなったことに加え、興業成績が下降線で経営者として悩んでいたこと、休むに休めなかったことも明らかになっています。
このため事故死ではなく、過労死だと吐露する関係者もいるほどでした。