「藤子・A・不二雄」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「藤子・A・不二雄」の死に際とは?日本の人物

終戦後の間もない頃からの大物漫画家として知られている、藤子・A・不二雄。

彼の晩年や死に様とは、一体どんなものだったか。

「藤子・A・不二雄」とは?簡単に説明

1934年に富山県の寺で生まれた藤子・A・不二雄は、本名を安孫子素雄といいました。

高岡の国民学校で相棒の藤本弘と出会い、1951年から2人組の漫画家として駆け出します。

当初は藤子不二雄のペンネームで、「オバケのQ太郎」「忍者ハットリくん」「プロゴルファー猿」などの名作品を多数執筆しています。

1987年にコンビを解消してからは、「パラソルへんべえ」などの作品を残しました。

しかし2022年の4月7日にこの世を去っています。

享年88歳でした。



「藤子・A・不二雄」の晩年

80歳代を迎えた晩年の藤子・A・不二雄は酒好きであり、生まれてから一度も病気にかかったことがないと豪語していました。

しかし2013年になって大腸がんが見つかり、東京医科大学病院で治療を受けることになります。

この時に元相棒の藤子・F・不二雄や同世代の友人だった手塚治虫らが夢に出て、「こっちにこい」と言われたとの逸話を残しています。

そして翌年には腸閉塞を患って再入院。

2015年になってからはゴルフ中に失神して救急搬送され、心不全が判明したので再度の入院治療を受けています。

そうした健康の問題が続いたため、2015年からジャンプスクエアの「PARマンの情熱的な日々」が、12月号にて休載されると発表されました。

そしてこれ以降、彼が漫画家としての活動をすることはありませんでした。

しかし2019年には富山の文学館にて個展が開催されるなど、年をとっても精力的な活動を続けています。

死後には新作の下書き原稿が見つかったとのことで、藤子・A・不二雄の漫画に対する情熱は、死の直前まで失われていなかったようです。



「藤子・A・不二雄」の死に様

当時の報道によると2022年の4月7日、朝の8時40分ごろに川崎市多摩区にある自宅の敷地で、藤子・A・不二雄が倒れているところを地元の人に発見されています。

その時に神奈川県警に通報されて、駆けつけた捜査員によって死亡が確認されました。

警察によると彼の体に外傷はないとのことで、死因は明らかにされてはいません。

最後に氷見市で住職をしている甥っ子が会ったのは1週間ほど前の米寿のお祝いの席でした。

その時には元気で死の兆候もなかったとのことです。

「藤子・A・不二雄」の死に様の信憑性

どんな状況で藤子・A・不二雄が死を迎えたかについては、はっきりと分かることが少ないです。

死因が明らかにされていないのが理由ですが、外傷がなく晩年は病気を患っていたことから病死、あるいは老衰の可能性もあると見られます。

特に不可解な事件に巻き込まれたという話もないので、報道されている死に様の信憑性は高いと言えそうです。

まとめ

漫画家として大成した藤子・A・不二雄は、長寿を全うすることもできたので、死の様子はともかく良い人生を送ったようです。

今後も度々藤子・A・不二雄が残した、作品の数々を見る機会があることでしょう。

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