「坂上田村麻呂」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「坂上田村麻呂」の死に際とは?日本の人物

元祖毘沙門の化身「坂上田村麻呂」の晩年とは?

この記事では坂上田村麻呂の死に際、そして晩年について解説していきます。

「坂上田村麻呂」とは?簡単に説明

毘沙門の化身といえば上杉謙信を思い出す方が多いと思われますが、偉大な先人としてこの異名をもつのが坂上田村麻呂です。

蝦夷征討で征夷大将軍として東北を平定したことでも有名ですが、晩年は大納言として政務に励んでおり、嵯峨天皇を助けます。

また英雄として創作物で極めて人気が高く「坂上田村麻呂伝説」が次々に生まれました。

田村語りは創作物として現代でも能楽では与阿味の「田村」が古典的な修羅能として演じられています。

古代から中世にかけて国民的英雄として特に偶像崇拝された人物です。



「坂上田村麻呂」の晩年

藤原緒嗣の徳政相論により805年に予定されていた東北遠征は中止になります。

しかし本来臨時職である征夷大将軍は坂上田村麻呂が没するまで拝命されたままとなり、有事の際には即時対応できる体制が敷かれていたと言っていいでしょう。

806年には桓武天皇が崩御、即位した平城天皇により政策見直しが行われたため、財政負担の大きい蝦夷征討は行われなくなります。

そのうえで坂上田村麻呂は擬任郡司・軍毅の申請を行い、現地の安定融和政策を推し進め東北平定に区切りをつけています。

この年以降はトントン拍子で右近衛大将、侍従、兵部卿と出世を続け大納言にまで任官されるのでした。

晩年も晩年、嵯峨天皇が即位したおりに桓武天皇のご治世でけりがついていたはずのとんでもない事件が起こります。

いわゆる薬子の乱で平安京と平城京の二所朝廷体制となり、坂上田村麻呂は嵯峨天皇側でこの事件に対応。

藤原薬子と藤原仲成の排除を受け入れがたい平城上皇が東国で挙兵する算段を大和国から出る前に防ぐ活躍を見せています。

これが天皇四代に仕えた坂上田村麻呂の最後の大仕事となりました。



「坂上田村麻呂」の死に様

薬子の変後は特別な事件も起きず、年明けには射礼を観覧し、渤海国の使者を饗応するなど穏やかな日々を過ごしていたようです。

しかし811年2月中旬以降公の場に姿を現した記録がなくなり、同年6月17日に粟田の坂上田村麻呂別邸でその生涯を終えています、享年54歳のことでした。

「坂上田村麻呂」の死に様の信憑性

天皇に即位してまもなくまだ若輩の25歳であった嵯峨天皇にとって信任の厚かった坂上田村麻呂の存在は大きかったのでしょう。

「事を視ざること一日」と喪に服し政務をやすんだと伝えられています。

その日のうちに坂上田村麻呂の業績を讃える漢詩を作り追悼。

また遺族にたいしても即日御賜品をおくっており、それは手厚いものだったことが『日本後記』弘仁二年十月十七日条に記載されています。

まとめ

坂上田村麻呂は征夷大将軍として蝦夷征討、東北平定に大きく貢献しましたが、晩年は平城、嵯峨天皇の侍従として畿内でその役割を果たしています。

武一辺倒の人間ではなく、擬任郡司・軍毅申請を行うなど人の心を思いばかって行動した人物でもありました。

このことが後の世でも長く英雄として偶像化され、人気のあった要因ではないでしょうか。

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