岡本太郎は日本を代表する芸術家で、大阪で開かれた万国博覧会の「太陽の塔」を制作した人物として知られています。
岡本太郎の晩年と最期を紹介します。
岡本太郎とは?
岡本太郎は、漫画家である岡本一平と小説家で歌人の岡本かの子の間に誕生しました。
東京美術学校に進学しますが、家族と共にフランスに渡り10年を過ごしました。
ここでパブロ・ピカソの作品と出会い、大きな衝撃を受けます。
ピカソを超えることを目標に、絵画に邁進しました。
日本に帰国すると太平洋戦争で招集されます。
終戦を迎えると再び制作活動を再開し、絵画や陶板壁画、彫刻、建築など幅広い作品を世に送り出しました。
岡本太郎の晩年
「芸術は爆発だ」とは、岡本太郎の有名な言葉です。
その言葉を体現するかのようにユニークで破天荒なキャラクターが人気を博し、テレビのバラエティ番組やCMなどにも多数出演していました。
晩年になっても創作意欲は旺盛で、展覧会などにも作品を出品しています。
また、80歳になった時に自分が所蔵していた作品は、全て川崎市に寄贈しました。
岡本太郎の最期
岡本太郎は、1996年に84歳で亡くなります。
以前から患っていたパーキンソン病によって急性呼吸器不全となったためです。
岡本太郎は生前から葬式を嫌っていたので、亡くなった際には葬儀は行われませんでした。
「死は祭りだ」と言っていたとも言われています。
ただし、お別れ会が開催され、会場には岡本太郎が残した作品が数多く展示されました。
岡本太郎の両親
岡本太郎の両親は、とても奔放で自由な人達でした。
父の一平は放蕩者で、そのために一家の生活は困窮したといいます。
一平が家庭を顧みるようになると、今度は母であるかの子が愛人を作り同居するようになります。
岡本太郎は父と母と母の愛人と一緒に生活するという複雑な家庭環境で育ちました。
かの子のことを母親としては最低だと評価しつつも、愛し続けたともいわれています。
岡本太郎をめぐる逸話
岡本太郎は多くの女性と恋愛をし、プレイボーイとしても知られています。
しかし、生涯結婚することはありませんでした。
それは子どもの頃の家庭環境が影響していると考えられます。
岡本太郎は平野敏子という女性と出会い、亡くなるまで良きパートナー関係にありました。
敏子は岡本太郎の最大の理解者で、秘書を務めています。
そして岡本太郎の養女となりました。
二人は夫婦のような関係でもありましたが、岡本太郎は敏子と結婚するのではなく娘として家族になることを選んだのです。
まとめ
岡本太郎は、絵画や陶板壁画、建築など様々な芸術作品を制作しました。
晩年にはテレビのバラエティ番組などにも出演し、「芸術は爆発だ」という有名なフレーズを残しています。
その創作意欲は年を重ねても衰えず、精力的に活動を続けました。
そして84歳で亡くなっています。
本人が葬式を嫌っていたので、お葬式は行われませんでした。