「最澄」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「最澄」の死に際とは?日本の人物

空海とはどんな関係だった?「最澄」の晩年とは?

この記事では「最澄」の晩年や最期について分かりやすく解説していきます。

「最澄」とは?簡単に説明

最澄は日本の天台宗の開祖で本来は弟子を唐に留学させる予定でした。

しかし桓武天皇に直接の入唐を要請されたため自ら天台山へ向かい学んで、帰国後密教を広めていきます。

具体的にはお釈迦さまの法華経の世界と大日如来の密教は1つにしたものを天台の教えとして説いていきました。

最澄を語る時に外せないのは空海で、同じ時期に生きた坊主と漠然に記憶してる方も多いでしょう。

この二人の関係性はあまりよくありません。

「真言の教えが天台よりも優れる」この一言に全てが語られていると言っていいはずです。



「最澄」の晩年

最澄は晩年、法華一乗による世の安寧を具現化するため宝搭を建てるべく尽力しました。

九州2、北関東2の東西南北と比叡山の東西の計6ヶ所設置しています。

六所宝塔と呼ばれ、完成したのは没後ですが、弟子も巻き込んでの最澄の晩年の一大事業となりました。

最澄が晩年もう1つ尽力したのが、大乗戒壇の設立です。

戒律制度の改革を目的に天台宗独自の受戒制度と育成制度の確立を目指しましたが、既存の南都七大寺の反発を受け実現することはありませんでした。

亡くなる3ヶ月前にも三度目の提言をするほどの執着を見せるも叶わずに終わります。

(一説には亡くなる前日に勅が許されていたとも)
また晩年激しい論争を繰り返したのが法相宗の徳一とでした。

簡単にいえば天台宗の一乗と法相宗の三乗、どちらが正しいのか?の議論です。

この論争は述べ4年間に渡って繰り広げられ、最澄の著作もほとんどがこの議論についてのこととなっています。



「最澄」の死に様

最澄は「心形久しく労して 一生ここに窮まれり」という言葉が残しています。

大乗戒壇の実現に向けて尽力はしたが、既存の寺社勢力の抵抗に合い実現しなかったことを嘆いたものだと言われています。

2月14日に伝燈大法師位受勲の時には既に体調を崩しており、その1ヶ月後には既に重体で余命いくばくの状態に陥りました。

体調が悪い中で決死の思いで出した『顕戒論縁起』が却下されたのも心労となったに違いありません。

最澄は822年6月4日の辰の刻に比叡山東塔の浄土院で入滅、享年56歳のことでした。

「最澄」の死に様の信憑性

亡くなったことに関しては『類聚国史』や『叡山大師伝』に書かれた通りに信憑性は高いのですが、大乗戒壇の勅許が降りた日が異なり前者では亡くなる前日、後者は1週間後とされています。

叡山大師伝は最澄の弟子である仁忠もしくは真忠によって本来信憑性は高い史料です。

しかしこの点に関しては類聚国史が脚色なく記述され信憑性が高いとされています。

まとめ

晩年を亡くなる前の5年間と定義した場合、最澄はライフワークとも呼べる2つの事業に着手しており、存外忙しい日々を過ごしていたと言えるでしょう。

晩年は宗教観による三一現実論争もありましたが、瓢箪からコマとはこのことで徳一との論議から大乗戒壇設立のアイデアは生まれています。

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