山内一豊は、土佐高知藩20万石の大名となった戦国武将です。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者に仕え、厚い信頼を勝ち得ていました。
藩主となった山内一豊の晩年と最期はどのようなものだったのでしょうか。
山内一豊とは?
山内一豊は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
岩倉織田氏の家老であった山内守豊の三男として生まれました。
主家が織田信長に滅ぼされると、父も兄も失っていた一豊が主となり流浪の日々を送りました。
その後、織田信長に仕えるようになります。
本能寺の変によって織田信長が死んだ後は、豊臣秀吉の天下取りに尽力しました。
そして、豊臣秀吉没後の関ヶ原の戦いでは率先して徳川方に味方したことから、土佐国を与えられました。
山内一豊の晩年
徳川家康が江戸幕府を開き徳川政権を盤石のものにすると、山内一豊は土佐の領主となり内政の安定に尽力しました。
しかし、土佐の地にはかつての領主であった長宗我部氏の勢力が根強く残っており、一揆が頻発するなど不満分子がくすぶっています。
その鎮圧に一豊は非常に手を焼いたといわれています。
長宗我部氏の旧家臣達が浦戸城に立てこもった浦戸一揆では、270名以上を斬首するなど厳しい一面を見せています。
また、入国の際には祝賀行事として相撲大会を開催し、民衆の心をつかもうとしました。
大高坂山城跡に高知城を築城したり城下町を整備するなど内政に力を注ぎますが、勃発した滝山一揆の鎮圧に苦慮するなど城主としては悩みが多かったようです。
山内一豊の最期
山内一豊が亡くなったのは、土佐に入国してから5年後のことでした。
高知城で、急な病によりあっけなく亡くなったとされます。
死因についてははっきりしていませんが、反乱分子による心労が影響したとも考えられます。
享年は61でした。
山内一豊にまつわる逸話
山内一豊といえば、妻の千代を抜きには語れません。
千代は賢夫人として有名で、司馬遼太郎の歴史小説「功名が辻」のモデルにもなっています。
NHKの大河ドラマで実写化されているので、ご覧になった方も多いでしょう。
千代は夫を内助の功で助け、一豊が名馬を買うためのお金を差し出したというエピソードは有名です。
その馬が織田信長の目に留まり、出世の糸口になったと伝えられています。
夫婦仲はとてもよく、一豊は当時としては珍しく側室を持たなかったといいます。
夫婦の間には一人娘も誕生しますが、地震の際に亡くなってしまうという不幸に見舞われました。
山内一豊の後を継いだのは、弟である康豊の長男・忠義です。
一豊の養嗣子となりました。
まとめ
山内一豊の晩年は、藩主として土佐の安定化のために力を注ぎます。
一揆が起こるなど対応に苦慮することばかりで、悩みも大きかっただろうと考えられます。
内助の功で知られる妻の千代との夫婦仲はとても良好でした。
高知城において、61歳でその生涯を閉じています。