「近松門左衛門」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「近松門左衛門」の死に際とは?日本の人物

近松門左衛門は、江戸時代に人気だった浄瑠璃や歌舞伎の作者として知られる人物です。

近松門左衛門の晩年と最期を紹介します。

近松門左衛門とは?

近松門左衛門は越前の武士の家柄に生まれますが、15歳頃に父親が浪人となったため京都に移り住みます。

京都では公家に仕え、その際に教養を身に付けたと言われています。

20歳頃に主人を亡くしたことで公家から離れ、浄瑠璃を書くようになりました。

公家の家に仕えていた頃、京都で評判だった浄瑠璃語りの宇治加賀掾と知り合ったことがきっかけとされます。

その後は浄瑠璃や歌舞伎の名作を次々と執筆しました。



近松門左衛門の晩年

晩年は、浄瑠璃作家として円熟期を迎えたといっても過言ではありません。

竹本義太夫のために書いた「曾根崎心中」は好評を博し、近松門左衛門の代表作となりました。

この作品によって世話浄瑠璃を確立しています。

その後は竹本座で、浄瑠璃の執筆に専念しました。

長らく京都に住んでいましたが、住まいも竹本座がある大阪に移しています。

竹本義太夫が亡くなると竹本座は危機を迎えますが、跡を継いだ竹本政太夫を助け一座の立て直しを図ります。

そこで生まれたのが「国性爺合戦」で、大人気となりました。

中国人の父と日本人の母を持つ明朝の復興に尽力した鄭成功を題材とする作品です。

初演から17か月連続で公演が行われた程の人気を博しました。



近松門左衛門の最期

近松門左衛門は晩年も浄瑠璃の執筆を続けていましたが、晩年は病気がちでした。

「平家女護島」「心中天網島」といった作品の発表も行っています。

また、他の人が書いた浄瑠璃の添削なども行っていたようです。

そして、72歳で亡くなりました。

享保9年に起きた大阪大失火により避難しており、天満の仮住まいで亡くなったとされます。

巻き起こった心中ブーム

近松門左衛門の代表作「曾根崎心中」は、相思相愛の男女が心中する物語です。

大阪の女郎と商家に勤める手代が情死した実際の事件を題材としており、世に心中ブームを巻き起こしました。

若い男女の心中事件が後を絶たず、江戸幕府も対策に乗り出します。

享保8年からは心中事件を扱った演目の上演や脚本の執筆が禁止されました。

心中事件を起こし生き残った場合には、極刑に処せられることにもなったのです。

近松門左衛門をめぐる逸話

近松門左衛門は元々武士の家柄に生まれているので、歌舞伎や浄瑠璃といった芸能の世界に身を投じることは非常に思い切った決断でした。

当時は、芸能に関係する職は身分の低い劣った者がするものと考えられていたからです。

近松門左衛門には兄と弟がいますが、どちらも松山藩に召し抱えられ武士として生きています。

まとめ

近松門左衛門は、晩年になってから浄瑠璃作家として円熟期を迎えます。

竹本座の座付き作者となって、数々の名作を世に送り出しました。

創作意欲は衰えませんでしたが、病がちになることが多く72歳で亡くなっています。

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