60年代後半の歌舞伎人気を牽引した三之助の一人「尾上辰之助」の散り際とは?
この記事では尾上辰之助の晩年と散り際について解説します。
「尾上辰之助」とは?簡単に説明
18歳の時に初代「尾上辰之助」を襲名。
60年代後半には同世代の「四代目尾上菊之助」「六代目市川新之助」と共に『三之助』として、歌舞伎人気を牽引しています。
またテレビでは大河ドラマ『徳川家康』の伊達政宗役が当たり役になりました。
『草燃える』の「後鳥羽天皇」役で出演した時ほどの登場回数はありませんが、人気武将を演じたことで歌舞伎を知らない層にも広く名前と顔が知られる事になりました。
バラエティにも出演しており、普段とひと味違った素の姿を見せていたのが印象的です。
「尾上辰之助」の晩年
歌舞伎役者としてだけでなく、俳優としても順調だったもの、体調不良は誰の目にも明らかなところまで進行。
86年2月には喀血、入院生活を余儀なくされます。
若い時分からの酒量の多さが祟ったようでアルコール性肝炎を発症。
この時は4ヶ月で退院することができ、11月には舞台に復帰しています。
休んだ分を取り戻すかの如く、11月から3ヶ月続けて舞台にあがったもの、顔はやつれ体調の悪さは誰の目にも明らかでした。
「尾上辰之助」の死に様
繊細な性格ゆえに重圧を酒で解消していたとされますが、その酒量の多さに肝臓は密かに悲鳴を上げていたのでしょう。
1987年2月は休養に充てるも、翌3月18日自宅で倒れ入院。
治療を受けますが、既に肝臓は限界にきていました。
28日に容態が急変。
肝硬変の合併症では珍しくない門脈圧亢進症由来と思われる食道静脈瘤破裂により命を落としてしまいました。
40歳没。
「尾上辰之助」の死に様の信憑性
1986年にアルコール性肝炎で入院したことはよく知られていますが、既に20代半ばで内臓疾患を罹患。
三之助時代とは容貌が変わったと言われるほど激やせしています。
若い時分から酒豪だったのは良く知られており、それがアルコール性肝炎、肝硬変に繋がったと言えるでしょう。
アルコール性肝炎が肝硬変に変化するまでの大凡の時間が約20年と言われていますから、20代半ばに患った内臓疾患も肝炎だった可能性が高いと言えます。
まとめ
「尾上辰之助」は1987年3月18日に自宅で倒れ、緊急入院。
10日後の28日に肝硬変による門脈圧亢進症から食道静脈瘤が破裂。
若くして帰らぬ人になりました。
40歳没。
86年2月にアルコール性肝炎で喀血してから、わずか1年後の事でした。
20代半ばにも体調不良で激痩せしており、その時から肝臓の具合は良くなかったと推測されます。
繊細な性格で、舞台の重圧を酒で解消する日々が若い頃から続いていたそうです。
飲酒でストレス発散自体は問題ないもの酒量が桁外れでした。
一晩でウイスキーのボトル1本空けることも珍しくなく、それが肝硬変に繋がり命を縮めることとなりました。