「源義朝」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

「源義朝」の死に際とは?日本の人物

鎌倉幕府の初代征夷大将軍である「源頼朝」の父「源義朝」はどのような最期を迎えたのでしょうか?

源義朝の晩年、そして死に際までの流れを解説していきます。

「源義朝」とは?簡単に説明

清和源氏の一流である河内源氏の6代目棟梁である「源義朝」「源為義」の長男として生まれました。

数奇な運命を辿り、関東に下向されるもその能力の高さで現地で勢力を伸ばし、これが後に鎌倉幕府の下地、礎となったと言っていいでしょう。

関東で十分な権勢を誇った義朝は二十代も半ばで、平安京に戻り地盤を固めていきます。

保元の乱では勝ち組にまわりますが、その三年後の平治の乱では朝敵として苛烈な処断を受け、最期を迎えることになってしまうのでした。



「源義朝」の晩年

保元の乱では勝ち組となり、左馬頭の役職を得た義朝でしたが、勝ち組の中での恩賞格差などから、胸中に不満の炎が燻るようになっていきます。

その不満が約3年半後の1160年初頭の“平治の乱”へと繋がり「藤原信頼」とともに兵をあげ、権勢を誇っていた「信西」の一門を捕縛し処断、排除に成功するのでした。

しかし信西派を駆逐したあとに思いがけぬ事態が起こります。

熊野詣に出掛けていた「平清盛」が早々に帰京し軍勢を集めていたこと。

「美福門院」を中心とした二条親政派は信西が始末されたことで懐柔され、信頼を中心とした後白河院政派は切り捨てられることになるのでした。

六波羅合戦が起こり、義朝らは朝敵となったうえに寡兵で混成軍、さらには源光保も寝返り四倍以上の戦力差を覆すことはできず逃亡することになります。



「源義朝」の死に様

義朝とその一門衆は六条河原で敗戦後「片切景重」が六条河原で殿を務め、さらには「山内首藤俊通」が四条河原まで敵を引き付けた事で苦難の末に平安京を脱出し、再起をかけて関東へと逃避行を図りました。

当然ながら朝敵となった義朝らには苛烈な追撃戦が行われ、一門衆は散り散りになっていきます。

美濃についた時には既に頼朝は途中で遅れ行方不明になっており、二男の朝長は怪我で足手まといになることを理由殺して欲しいと嘆願。

義朝は本意ではなくとも父・弟に続いて息子にまで手をかけることとなりました。

東海道と東山道の二手に別れることで生存確率を上げようとここで長男義平とも別れます。

馬を失いながらもなんとか美濃から尾張へとたどり着き「鎌田政清」の舅である「長田忠致」のもとに身を寄せますが、裏切りに合い浴場で討たれ38歳でその生涯を閉じています。

「源義朝」の死に様の信憑性

義朝の足取りについては軍記物語ではありますが『平治物語』を出所にしています。

ただし中世日本で最も重要な歴史書と評価される『愚管抄』では尾張の長田家に身を寄せた時点で長田親子の悪意、恩賞目当てに気づき、義朝自ら帯同した政清に首を取らせている点が相違点でした。

臨済宗天龍寺派の法山寺に御湯殿跡があることに加え、後の世で頼朝が苛烈な処刑を忠致にしたことを考えると前者の信憑性が高いように思えます。

まとめ

源義朝は保元の乱から三年後の平治の乱からの逃亡戦の末に尾張国、現在の知多郡美浜町でその生涯を閉じたことに関しては間違いないでしょう。

長田親子に討たれたのか、帯同していた政清に自ら首を差し出したのかは不明です。

しかし後に頼朝が平家を掃討したあとに処断、斬首されたことが濃厚。

父の敵討ちだったとされるため、義朝は浴場で長田親子に討たれた説が濃厚だと言えるはずです。

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